福の逸話でも特に有名なのは、嫡男・家光より次男・忠長を溺愛する秀忠、お江与(えよ)の方に対抗して、自ら駿府にいる大御所・家康に直談判に及び、家光の立場を明確にさせたというものです。
ことの真偽はともかく、忠長を秀忠夫妻が寵愛していたのは事実のようで、下手をすると徳川幕府内の後継者争いが戦乱を招く可能性はありました。
家康はそのことを恐れ、長幼の序を後継者の基本とすることを定め、争いを未然に防ぎました。同時に福には、家光を皆が納得する後継者に育てる重責がのしかかりますが、家康は、その能力が福にはあると信頼していたようです。
この逸話からわかるように、家光の母・お江与の方と福は対立関係にあったと言われることが多いのですが、現実には福はお江与の方の信頼のもとに「将軍様御局」として、大奥の役職や法度などを定めていきます。彼女の立場は、お江与の方の右腕でもありました。
福、春日局となる
お江与の方の死後、福は江戸幕府における女性の最高権力者となりました。それまで、あくまで一介の乳母であった福は、その力を形のうえでも示すことになります。
1629年、家光の疱瘡治癒祈願のため伊勢神宮に参拝した福は、そのまま京に上り、御所への昇殿を図りました。
武家の娘では(稲葉家とは離縁しているため、彼女の立場は罪人として処刑された斎藤利三の娘となっていました)昇殿できないため、かつての育ての親であった三条西家と縁組し、三条西福として昇殿します。
朝廷は彼女に従三位の位と「春日局」の名を与え、さらに再上洛した1632年には従二位に昇格しました。この位は、武家として初めて朝廷を席巻した平清盛の妻・平時子、鎌倉幕府の尼将軍と言われた源頼朝の妻・北条政子に匹敵するものです。
「謀反人の娘」が「日本最高位の女性」になった瞬間でした。
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