混乱時に覚醒した家康のマルチタスク
圧巻の勝利といってよいだろう。1万もの大軍で押し寄せてきた北条勢に対して、徳川勢はわずか2000の兵で打ち破ったとされている(「黒駒の戦い」)。劇的な勝利の裏に、ある家臣の活躍があったことは、それほど知られていない。
1582(天正10)年、旧武田領である甲斐、信濃、上野をめぐって、徳川家康は越後の上杉景勝や相模の北条氏直らと、三つ巴の争いをすることとなった。「天正壬午の乱」と呼ばれる騒乱の始まりである。
なにしろ、旧武田領を支配していた織田信長は「本能寺の変」で討たれて、もうこの世にいない。信長の家臣なぞ恐るるに足らずと、周辺国が領土を獲得しようとするのは、ごく自然なことだといえよう。旧武田領は織田方の統治となって日が浅く、その点でも格好のターゲットとなった。


















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