突然の事態にもかかわらず、家康の動きは速かった。命からがら「伊賀越え」を成し遂げると、息つく暇もなく、各方面に書状を出し「光秀を打つべし!」というポーズを示しながら、武田旧臣で徳川方についた岡部正綱をすぐに甲斐に派遣。旧武田領にいち早くアプローチしている。
天正10(1582)年7月3日には、家康自身が浜松から出陣。9日には甲斐に入り、同じく出陣してきた、相模国の北条氏直と衝突することになる。
氏直勢は若神子(わかみこ)城に、家康勢は新府城に本陣をしく。両者がにらみあうなか、甲府盆地を目指して北条勢の別部隊が動き出す。その数は1万ともいわれるが、冒頭で書いたように、家康勢はわずか2000の兵でこれを打ち破っている。
「黒駒の戦い」とも呼ばれるこの戦いにおいて、家康が少ない勢力で北条に勝利できたのは、地元の武士や村々を味方につけていたからにほかならない。地元との折衝において、大いに存在感を発揮した家康の家臣が、井伊直政である。
徳川勢は甲斐に出陣しながら、地元の武士と交渉し、徳川への帰属が決まると「本領安堵状」を発行した。その多くに「直政」が奏者の名として記されている。
そうした直政の交渉力もあって、少数の兵にもかかわらず、1万もの北条勢に勝利した徳川勢だったが、戦自体は膠着状態に。10月20日頃からは和睦交渉が行われることとなる。
このときに北条方の使者は、北条氏規が務めた。北条氏規は、当主・北条氏直の叔父にあたる。それに対して、家康が徳川勢の代表として、北条側に送り出したのもまた、直政だった。
なぜ、家康は直政をそれほど重視したのか。直政の調整力に期待しただけではなく、その家柄も深く関係していた。
「桶狭間の戦い」で当主を失った井伊家
かつて、遠江国では「国衆」と呼ばれる地域領主が多く存在しており、井伊家も今川家の支配下にある国衆の一つだった。
戦国大名は国衆に支配領域を認める代わりに、国衆は戦国大名からの軍事動員に従わなければならなかった。
比較的独立して地域を支配しながらも、国衆が戦国大名の意向に逆らうのは難しい。「桶狭間の戦い」においても、井伊家は今川家に駆り出されている。
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