調整力で徳川に貢献「井伊直政」の壮絶な家の歴史 当主が戦死し、「存続の危機」に陥った井伊家

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その結果、今川義元が討ち死にしたことはよく知られているが、井伊家も当主である井伊直盛が命を落とす。そのほか、井伊家では小野玄蕃、奥山氏、上野氏、田中氏ら16人と雑兵26人もが討ち死にした。

ともに当主が戦死した今川家と井伊家。今川義元の後を嫡男の今川氏真が、井伊直盛の後を養子となっていた従弟の直親が継いでいる。だが、直親には謀反の疑いがかけられてしまい、氏真のところに弁明に行く途中で、氏真の重臣である朝比奈泰朝に討たれてしまう(諸説あり)。

これによって井伊家の男子は、直親の遺児である幼い虎松のみとなった。井伊家が存続の危機に陥るなか、幼少の虎松の後見人として井伊家の舵取りをしたのが、直盛の一人娘、井伊直虎だったといわれている。

何とかお家断絶を免れた井伊家。15才になった虎松が、徳川家康に仕えたことで、井伊家再興が果たされることになる。

信康が生きていたら、直政の出世はなかった?

直政が家康の家臣となったのは、1575(天正3)年のこと。鷹狩りの途中で、15才の直政を見かけて家康が声をかけたのが、きっかけだったと伝えられている。

前述したように井伊家は滅亡寸前にまで追い込まれたものの、今川家のもとでの有力国衆である。また「井伊」の名は1156年の「保元の乱」においてすでに確認されており、名門として、周囲の国からもよく知られていた。家康からすれば、直政は使者として送り出すのに格好の家柄だったようだ。

さらにいえば、多くの戦国大名では、兄弟や息子など親族らの一門衆が家臣団の最上層に位置づけられていた。『井伊家 彦根藩』(野田浩子著、吉川弘文館)では、当時の家康にそうした一門衆がいなかったことに注目。家康の嫡男、信康の不在が直政の出世につながったとして、下記のように解説している。

「一時的に徳川に一門衆が存在したといえるのは、家康長男の信康である。しかし、武田への内通を疑われてすでに命を落としていた。家康は、徳川と同等の家格にある直政を親族とすることで実質的に一門衆の役割を果たす立場に取り立てたと考えられる」

のちに徳川が豊臣政権のなかに取り込まれると、直政はさらに重用される。大名と同格として扱われて、諸大名や公家らと交際することとなった。

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