「春日局」謀反人の娘が日本最高位の女性に至る迄 大奥を仕切り家光を支え、江戸幕府の安定に寄与

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1604年、京都所司代板倉勝重によって、2代将軍徳川秀忠の嫡男である竹千代(のちの家光)の乳母の募集が行われます。福はこれに志願し見事合格。この決定は、福の教養や資質、さらには夫の稲葉正成が関ヶ原の合戦のおり、徳川のために小早川秀秋を説得した軍功などを加味したと言われています。

福は夫と離縁することに

ここで興味深いのは、彼女が織田信長を討ち果たした明智光秀の重臣斎藤利三の娘であるという出自がマイナスに働かなかったことです。これが家康の、信長に対するドライな感情を物語る一要素であるように筆者は感じます。

福の乳母正式採用を受け、夫の正成は彼女を離縁しました。この離縁には「正成が愛人をつくり、それに福が怒った」「福が相談せず勝手に乳母に応募したことに正成が怒った」など諸説ありますが、真因は定かではありません。

しかしながら福と稲葉家のつながりは離縁後も深く、稲葉家がその後、幕閣の中で出世を重ねることからも、ある程度、夫婦間で話し合った結果だと思われます。おそらく稲葉家が福の力で出世したと思われないようにしたのでしょう。

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