最愛の孫・千姫を豊臣秀頼に嫁がせた家康の苦悩 織田の血筋を引く女性に次々と訪れる数奇な運命
千姫は、1597年に徳川秀忠と正室・お江の長女として生まれました。
お江の母は信長の妹・お市の方で、姉は豊臣秀吉の側室であり秀頼の母である、淀の方です。
お江は、まず織田信雄の家臣で信雄の従兄弟でもある佐治一成に嫁ぎます。この婚姻は、お江の継父・柴田勝家が母・お市の方とともに自害したあとに決まったものでした。信雄を取り込みたかった秀吉の政略的意図とも、信雄自身が望んだこととも言われますが、信雄が秀吉と対立した後にお江が一成と離縁されている事実を見ると、秀吉の意向だった可能性が高そうです。
一成と離縁後、お江は、秀吉の甥である羽柴秀勝のもとに嫁がされました。同時期に姉の茶々(淀の方)は秀吉の側室に、妹のお初は京極高次に嫁いでおり、お市の方が残した三姉妹は秀吉の思いのままになっていたことが窺えます。
千姫の母・江の3人目の夫は秀忠
しかし、お江の2人目の夫となった秀勝は、朝鮮出兵の在陣中に病死してしまいました。それから3年後の1595年、お江は秀吉の命により、徳川家康の後継者・秀忠と3度目の婚姻をします。
秀吉にとっての家康は政権のナンバー2だったため、この婚姻には徳川家との結びつきを強める狙いがあったようです。お江は秀忠より6歳年上で、さらには3度目の婚姻ということで家康も複雑な気持ちだったでしょう。
しかし天下人・秀吉に逆らうことはできず、了承しました。ただ、夫婦仲は良かったようで、千姫を筆頭に家光、忠長など2男5女に恵まれます。
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