パレスチナへのユダヤ人の移民は、最初から国家形成ありきであったわけではない。圧倒的な人口差を持つ地域での国家形成はありえない。イギリス政府の後押しだけでなく、イギリスのロスチャイルド、モンテフィオーレなどのユダヤ系の資本家の資金供出、アメリカのユダヤ系資本の資金供出によって、まずは土地を購入し、そこにユダヤ人入植地をつくるという形で初めは進められた。
これを加速したのが、1930年代のナチスによるユダヤ人排斥運動である。これによってパレスチナへのヨーロッパからの移民はどんどん増えていく。パレスチナの住民は次第に僻地に追いやられ、それに対する抵抗運動が始まる。
1939年にはユダヤ人人口はすでに30%になっていたという。「軒を貸して母屋を取られる」という言葉があるが、まさに増大するユダヤ人の人口と西欧による後押しは、パレスチナの人々を周辺に追いやる。
第2次世界大戦以後、ヨーロッパから絶望したユダヤ人の大量入植が始まる。荒れ果てたドイツ、ポーランド、ウクライナ、ロシアからの入植者が新たな人口を形成していく。パレスチナ人は、戦前に抵抗運動を行っていたが、本格的な抵抗運動は4回にわたる中東戦争であった。
しかし、そのたびに西欧社会の支援を受けるイスラエルは確固たる領土を確保し、パレスチナ人は、イスラエルの外の国に移動するか、イスラエルの中のガザ、そしてヨルダン川西岸にほそぼそと生きるしかなくなる。こうして幽閉された大地に暮らすガザが生まれたのだ。
ロシア領土となったウクライナのユダヤ人問題が、イスラエルを生み出し、それが今、ガザでパレスチナ人と戦っているというわけである。(以上、ジャック・アタリ『ユダヤ人、世界と貨幣』的場昭弘訳、作品社、2015年参照)
帝国の崩壊と終わりのない紛争
19世紀からの歴史を見ると、ウクライナの問題とガザ問題は共通項をもっていることに気づく。
それは、オスマン帝国の崩壊、そしてオーストリア、ロシア、ドイツといった中東から東欧にかけて支配していた大帝国が、国民国家に取って代わったことによって生まれたマジョリティーの民族とマイノリティーの民族の闘争という問題である。
この問題は、ユダヤ人やパレスチナ人だけの問題ではない。これらの帝国には、民族や言語も違う人々が長い間共存してきたからだ。西欧から見ると、民族統一と言語統一による国民国家は当然のことのように見えるが、これらの混淆した地域でそれを行うことは至難の業といってもよい。
帝国という枠の中で、言語も民族もあまり意識せず生きていた時代は、ある意味幸福であったといえる。しかし、そこに民族統一と国民国家への運動が生まれる。そうなると、主たる民族と弱小民族との区分けが生まれ、弱小民族は弾圧を受ける。
ポーランド独立運動やロシアの独立運動は、ウクライナの民族を弾圧し、ウクライナの独立運動はユダヤ人や、ルテニア人、モルダヴィア人、ベッサラビア人、タタール人などへの弾圧へと進む。こうして迫害が始まる。「民族浄化」という概念は、まさにこうした民族運動から始まっていった。
こうしてウクライナのユダヤ人は追放され、パレスチナへ至り、イスラエルという国民国家をつくることになる。しかし、今度はそこで、ユダヤ人ではない民族を弾圧することになる。まさに皮肉というしかない。しかも、そのパレスチナも民族独立と国民国家形成を求めて、イスラエルのユダヤ民族と真っ向から対立しているというのだ。
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