お互いに単一民族による国民国家実現という、19世紀の国民国家の幻想の中でうごめいているわけだ。もちろんアメリカのような多民族国家はあるが、主たる民族と人種による差別と弾圧は後を絶たない。それは人々が、帝国にあったような、ある意味無関心、ある意味寛容な態度を持たないからである。個々人の独立が、かえって弱い民族や人種を差別していくのである。
その意味で、わずかな時期であったが、19世紀末のウィーンはこうした帝国のある種の理想型であったかもしれない。そこで花開いたユダヤ人の社会の文化は、西欧の歴史に燦然と輝いているからだ。
世に国際都市というものがあれば、あの時代のウィーンだったのかもしれない。オーストリア人の中でユダヤ人が少数であったことが、寛容の中で華やかな世紀末文化を生み出したのだ。しかし、このウィーンもポグロムから徐々に変わる。ユダヤ人の数が増えたことで、アンチセミティズム(ユダヤ人蔑視)の力が増したのだ。
国民国家として均一化されれば、人は他と違うものに脅威を感じる。そこに差別が生まれる。これを超えるには、多民族を包括する大きな帝国が必要であったのだ。すでに、オーストリア帝国は多民族国家であったが、次第に国民国家の勢いに潰されかけていたともいえる。
未来の国家とは
こうした帝国に代わる理想的モデルとして構想されたのが、国民国家ではなく、連邦国家であった。民族集団の集まりではなく、インターナショナルな集まりである連邦国家である。
しかし、あくまでもそれは理想である。ソ連、アメリカ、EUはそうした連邦を目指したものであったが、どこかで狂ってしまった。比較的うまくいっているのは、スイスであろうか。
スイスはConfoederatio Helveticaともいう。ヨーロッパでCHと書いた車があったら、それはスイスの車だ。「ヘルベティア連邦国家」だ。スイスは歴史も文化も違う地域を19世紀に人口的にまとめて作った国である。
ドイツ語でEidgenossenschaftという言い方もある。直訳すると「誓いでまとまった共同体」という意味である。現実はともあれ、未来社会はかくあるべきなのだろうか。
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