ウクライナとガザの紛争が歴史上同根である理由 19世紀4大帝国のきしみから生まれた民族的悲劇

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ロシアでは農奴解放、ウクライナの民族主義の勃興、ドイツの統一、オーストリアとハンガリーの同君連合の成立である。

東欧の帝国は民族独立問題を受けることでさまざまな改革を行ったが、結局解決することはできなかった。そうして、各地で民族独立運動が起きた。

そこで大きな影響を受けたのが、マイノリティーの民族だった。帝国の崩壊は、マイノリティー民族への弾圧を生み出した。ロシアではユダヤ人に対するポグロム(ユダヤ人に対する集団暴力)が起こる。

ポグロムを逃れたユダヤ人は、プロイセンやオーストリアなどに移住していったが、500万以上のユダヤ人が住んでいたロシア帝国、とりわけウクライナのユダヤ人社会の崩壊は、西欧社会に大きな社会的危機をもたらす。

この危機の中で、社会主義運動に参加するユダヤ人も大勢生まれた。トロツキー、ルクセンブルク、ジノヴィエフ、マルトフなどロシア革命で大活躍をする面々は、こうした流れを受けたものであった。ロシア革命の原動力の1つがロシア帝国のポグロムに対する抵抗であったともいえる。

一方、オーストリア帝国やドイツ帝国へ逃げのびたユダヤ人は、オーストリアで難民問題を引き起こす。ポグロムによる西欧へのユダヤ人の移動は、西欧人に反ユダヤ主義をもたらす。これがオーストリアのユダヤ人ヘルツルによる、シオニスト会議(1897年)を生み出す。

ポグロムとユダヤ人問題

ユダヤ人、とりわけウクライナ地域から来たユダヤ人を最終的にどこに落ち着かせるかという問題が、シオニズム問題であるが、そもそもユダヤ人に対して、長い間寛容ではなかった西欧では、東欧に比べユダヤ人の数はそれほど多くはなかった。

ユダヤ人の多くは、イスラム圏と正教会圏にそれぞれセファラードとアシュケナージとして暮らしていた。

急に増えてきたユダヤ人に対する西欧側の批判は、西欧社会の重要問題となる。とりわけそれに動いたのがイギリスであった。

イギリスは、ユダヤ人たちの移民先を探す。イギリスとフランスは、オスマン帝国が崩壊する中、中東地域に触手を伸ばしていた。こうして第1次大戦が始まり、オスマン帝国は完全に崩壊し、その支配下にあった中東地域はイギリス・フランスの植民地となる。イギリスは、その中でパレスチナ地域をユダヤ人移民のための基地とすることを決める。

「バルフォア宣言」が1917年に出されるが、そこで初めてユダヤ人の国がパレスチナで建設されることが決まる。もちろん、そこに住むパレスチナ人は第1次大戦後の国民国家成立のための努力を行っていた。

しかし、シリアやレバノン、ヨルダンの独立国家案は認められ、パレスチナだけが民族国家独立の機会を永遠に奪われてしまうのである。もちろん、中東のどの民族に対しても、欧米列強が主導したヴェルサイユ会議では、独立国家の存在を認めることはなかった。その独立は第2次世界大戦後を待つしかなかったのであるが、パレスチナにその機会が来ることはなかった。

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