フジテレビが仕掛けた「ネット専門局」の正体 「24時間ニュースぶっ通し」で何を狙うのか
――「異分子を放り込む」というスタイルが「ホウドウキョク」のコンセプトとして生きている?
「あしたのコンパス」にしても、アンカーというかたちで出演いただいているのも、「通常」では物足りないかもしれないニュースの在り方に、「通常の人じゃない人」を投入したらどう活性化できるかなというもくろみでもあります。
――私が出ているのは、そういう理由だったんですね(苦笑)。
いまのテレビってなかなか冒険できなかったりするじゃないですか。でもかつてのテレビは、もっと冒険に満ちていたんですよね。フジテレビが深夜番組をやり出したのが、1988~1989年ごろですね。僕が担当したフジの深夜番組に『アインシュタイン』(1990〜1991)がありました。科学番組って普通は「わかりやすく」つくるものなんですけど、『アインシュタイン』は、徹底的に難しくしようと思ったんです。
――あの当時のフジテレビの深夜番組は、いまでも語り継がれてます。『カノッサの屈辱』『カルトQ』『地理B』、ドラマでは高城剛が監督した『BANANA CHIPS LOVE』。僕は大学生でしたが、当時の深夜番組は、ほぼ同時期にCNNの湾岸戦争の映像がリアルタイムで中継されていたのと同様に、新しい体験として受け止めていました。
当時の深夜帯なんて空白の時間帯で、どうせ誰も見てないって言われていたんです。だからこそ当時の作り手は、ゴールデンの番組ではできないもっと面白いことをやってやろうって気概に満ちていた。
――その後『ウゴウゴルーガ』(1992〜1994年)で総合演出を担当されましたよね。
『アインシュタイン』の翌年ですね。そこで意識していたのって、1980年代をいかに総括するかだったんです。ピチカート・ファイヴの小西さんに『ウゴウゴルーガ2号』(ウゴウゴルーガと同時期、金曜夜に放送されていた番組)のオープニングとして作ってもらった『東京は夜の七時』では、「待ち合わせたレストランはもうつぶれてなかった」って歌われてるんですけど、つまりはバブルが崩壊してしまったという。それで、それが終わって今度はどんな時代が始まるのかなっていう。
――『ウゴウゴルーガ』もCGをフルに使った番組として話題になりましたが、その直後からインターネットの時代に突入していったわけですね。とはいえ、それがテレビのライバルになるまでには、まだ10年以上かかるわけですが。
あの時代のフロンティアが深夜帯だったように、今のフロンティアはインターネットなんですよ。僕らは当時を知る生き残りなので、当時のフジテレビスピリットみたいなものをネットという新しい場所で発揮できるという意気込みはあります。
いかにマネタイズをするか
――制作にかかわるスタッフの人数ってどのくらいいるんですか。
これ、びっくりするぐらい少ないですよ。ひとり欠けたら回らないくらいで。専従でやっているのって、30人強です。ディレクター、副調整室、送出それらをひっくるめてそのくらいです。ほぼ24時間、何かしら動いているわけで、要するにテレビ局をまるごとやっているようなものですからね。報道局の記者、アナウンサーなどを利用できるので、そういったリソースは活用していますけど。
――一般的なテレビ番組ってどのくらいの人数でつくられているんですか?
たとえば、『めざましテレビ』は約200人いるんですよ。『とくダネ』でも140人いるのかな? そんな感じなんですよ、番組を毎日2時間つくるって。でもいかに最少人数で番組をつくるかという、僕のここ数年のテーマでもあったんですね。『新・週刊フジテレビ批評』は、毎週1時間ですけど十数人でつくっています。これが最小単位ですね。
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