家康が「自決も覚悟」本能寺の変直後に下した決断 三河に戻る「伊賀越え」に至るまでの心の葛藤

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今回もまさに判断は一刻を争うことになる。『徳川実紀』では、まず家康は信長の仇を討つという考えを瞬時に検討したことがわかる。

「私は長きにわたって織田殿と深く親交を結んできた。もう少し人数を引き連れていたなら、光秀を追いかけ織田殿の仇を討つが、これほどの少人数ではそれもかなわないだろう」

確かに、このときにお供として連れてきていたのは、重臣30人ほどだった。光秀を討つには、あまりに少人数である。次に考えたのが、信長とともに自決するという道である。家康は次のように言葉を続けた。

「中途半端なことをして恥をかくよりは、急いで都に上って知恩院に入り、切腹して、織田殿と死をともにしよう」

家康が天下統一を果たすことを知っている私たちからすると、「信長が死んだから」と自決しようとするのは、ずいぶんと乱暴な思考のように思うかもしれない。

だが、このとき、家康は明智光秀から差し向けられる討手から逃げなければならなかった。当然、見つかりにくい山道を選んで逃げる必要があるが、そこには「落ち武者狩り」が横行しているに違いない。

戦に敗れた武士から甲冑や武器などをはぎとってしまう「落ち武者狩り」は、地侍や農民たちとって臨時収入である。特に家康の首ならば、敵側に持っていけば、大きな報酬となるだろう。

狙われるほうからすればたまったものでない。さっきまでの接待漬けのリラックスタイムとは、天と地ほど差がある、窮地にいきなり追い込まれたのだ。いっそ無様な最期をさらすくらいなら、と家康の頭に自決がよぎったのは、無理もないだろう。それくらい絶望的な状況だったのである。

信長を追って自決しようとした

思えば、家康は桶狭間の戦い後も「自決しようとした」という逸話が残っている。「今川義元が討たれた」と知らせを受けた家康はすぐに、岡崎城に入ろうとするが、まだ今川方の城兵が残っていため、いったん大樹寺に立ち寄っている。

今川の兵たちが立ち去るのを待っていたわけだが、首尾よくいくという保証はない。一説では、このときに、家康は先祖の墓の前で自決しようとしたという。

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