死に急ぐ家康を説得したのが、住職を務める登誉天室だといわれている。登誉天室は家康の祖先にあたる松平親忠について、こう言い聞かせた。
「親忠様は、子孫から征夷大将軍が出ることを願い、寺の名を大樹寺としたのだ」
「大樹」とは将軍の別称である。祖先の思いに触れて、家康がこのときは自決をとどまったという。話としてはできすぎているが、「ここぞ」というときでの家康の判断は大胆で、確かに死を恐れていないようにも思える。
もしかしたら、いったん「自決」という極端な方向を考えることで、文字通り、死ぬ気になって物事にあたるのが、家康のやり方だったかもしれない。
この「本能寺の変」を知ったときも、自決を覚悟しながらも、家康は生きる道を選ぶことになる。忠勝から「信長の恩に真に報いようと思うのであれば、まずは本国に帰り、軍勢を率いて光秀を討つ、それこそが大切なのではないですか」と説かれると、酒井忠次や石川数正らもそれに同調。家康も、最終的にはその提案を受けいれている。
「伊賀越え」を決意した家康
明智勢にも、落ち武者狩りにも見つからずに、三河に戻るには――。その打開策は伊賀出身の家臣、服部半蔵こと服部正成からもたらされる。伊賀の地侍や農民たちにならば、話ができそうだ。伊賀国の険しい山道を行くことが、結果的には最も安全だという。
これこそが「神君三大危機」の1つに数えられる「伊賀越え」である。「三河一向一揆」と「三方ヶ原の戦い」に並んで、家康が命を危うくした事態として語り継がれる。
こうして家康は、さっきまで命を絶とうとしていたとは思えないほど全力で、山中を駆け抜ける羽目になった。
【参考文献】
大久保彦左衛門、小林賢章訳『現代語訳 三河物語』(ちくま学芸文庫)
大石学、小宮山敏和、野口朋隆、佐藤宏之編『家康公伝〈1〉~〈5〉現代語訳徳川実紀』(吉川弘文館)
宇野鎭夫訳『松平氏由緒書 : 松平太郎左衛門家口伝』(松平親氏公顕彰会)
平野明夫『三河 松平一族』(新人物往来社)
所理喜夫『徳川将軍権力の構造』(吉川弘文館)
本多隆成『定本 徳川家康』(吉川弘文館)
笠谷和比古『徳川家康 われ一人腹を切て、万民を助くべし』 (ミネルヴァ書房)
平山優『新説 家康と三方原合戦』 (NHK出版新書)
河合敦『徳川家康と9つの危機』 (PHP新書)
二木謙一『徳川家康』(ちくま新書)
日本史史料研究会監修、平野明夫編『家康研究の最前線』(歴史新書y)
菊地浩之『徳川家臣団の謎』(角川選書)
太田牛一、中川太古訳『現代語訳 信長公記』(新人物文庫)
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