信長としては、安土の宴席にて、明智光秀が用意した魚が腐っていたのが、よほど忸怩たる思いだったのだろう(記事「徳川家康、信長への「やりすぎ接待」の思わぬ波紋」参照)。失態を取り返すかのように、家康は織田勢から連日のもてなしを受けることになった。
接待を受けながら、家康も信長と、これからどんな関係性を築いていくべきかについて、今後の展開とともに思いを馳せていたに違いない。
しかし、あくる日の6月2日、家康が描いていていたであろう、今後のプランは大きく変更を迫られることになる。
先発した本多忠勝がすぐに戻ってきたワケ
6月2日、家康は再び京に戻ろうとしていた。信長に到着を事前に知らせるためだろう。側近である本多忠勝を先に京へと向かわせている。
だが、その道中で、忠勝のそばへと馬を寄せてきた1人の男がいた。京都の豪商として知られる茶屋清延である。信長がつけたお供から「京では茶屋という家を宿所にするとよいだろう」とあらかじめ伝えられていたが、なぜこれから京に向かうのに、わざわざ迎えに来たのか。
その理由を尋ねるよりも早く、忠勝は茶屋から、次のような衝撃的な事実を聞かされる。「明智日向」は明智光秀、「中村殿」は織田信忠のことをである(『徳川実紀』)。
「世はもはやこれまでです。今朝方、明智日向が反逆し、織田殿の宿所に押し寄せ火を放って攻撃し、織田殿は切腹され、中村殿も亡くなられたと承りました。このことを申し上げようとやってきたのです」
とんでもないことになったと、忠勝は茶屋を伴って、家康のもとへと急ぐ。
家康からすれば、まもなく発とうとしたときに、忠勝がただならぬ様子で引き返してきたので、不審に思ったのも当然のことだろう。井伊直政・榊原康政・酒井忠次・石川数正・大久保忠隣らだけを、そばに呼んで、茶屋から事情を聞くことになった。
このとき、家康の脳裏には「桶狭間の戦い」のことが頭に浮かんだのではないだろうか。あのときは、家臣たちと大高城で休んでいる時に「総大将の今川義元が討たれた」という知らせが舞い込んできた。はたしてどうするか。家康が目指したのは、妻子が待つ駿府ではなく、岡崎城だった。
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