漱石は「漢詩や漢文と、英文学って、全然ちがうもの、だよね……?」ということにロンドンで気づいたらしい。「漢学にいはゆる文学と英語にいはゆる文学とは到底同定義の下に一括し得べからざる」と語っている。つまり「文学」と一緒くたにしている漢文と英文学が、まったく別ものであることに気付いたのだ。
そしてその差を漱石はロンドンで研究しよう、と決意する。1年間「アジアの文学と欧米の文学の違いについて研究しよう」、それが彼のロンドンでのミッションとなる。
漱石はその結果、独自のグローバルな文学観を持ち帰り、東大の英文学教授になり、そして『吾輩は猫である』を執筆しはじめる。
漱石がロンドンに留学していなかったら、日本の文学はどうなっていたのだろう。『吾輩は猫である』も『こころ』も『夢十夜』も存在しない国語の教科書なんてない。そういう意味で、ロンドンから漱石が持ち帰ったものは、存外日本にとって重要なものだったのである。
帰国後も「狂人」と評された
漱石の小説は、根底にこのロンドン留学生活での「英文学が、漢詩と比べて、すごく優れているというわけではない」という思想に支えられている。だからこそ漱石は英語で文学をつづらず、日本語で文学をつづるに至ったのだ。誰かが「漱石や鴎外といった明治のエリート作家が、英語ではなく日本語で文学を書いてくれたことで、日本語の寿命は延びたのだ」と言っていたが、その根底には漱石のロンドンでの日々があった。
イギリス人にも日本人にも「神経衰弱」と言われながらも、ひきこもって文学研究をしていたロンドン生活。そして帰国後もかわらず、漱石は「狂人」と評されたという。
そう、「神経衰弱にして狂人」になったからこそ、漱石は『吾輩は猫である』を書くことができたのだ、と自分で語っている。
「私は神経衰弱と狂気に深く感謝している」「だって神経衰弱で狂人になったから、あの文学を発表することができた」――そう語る漱石の文学は、神経衰弱まっただ中のロンドン生活においては、まだ、誕生していなかった。
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