留学で苦悩、エリート「夏目漱石」が記した驚く自虐 小説観を築いた「孤独で悲しい」ロンドン生活

✎ 1〜 ✎ 33 ✎ 34 ✎ 35 ✎ 最新
著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小
余が英語における知識は無論深しといふべからざるも、漢籍におけるそれに劣れりとは思はず。学力は同程度として好悪のかくまでに岐(わか)るるは両者の性質のそれほどに異なるがためならずんばあらず、換言すれば漢学にいはゆる文学と英語にいはゆる文学とは到底同定義の下に一括し得べからざる異種類のものたらざるべからず。
大学を卒業して数年の後、遠き倫敦の孤燈(ことう)の下に、余が思想は始めてこの局所に出会せり。
(中略)
余はここにおいて根本的に文学とは如何なるものぞといへる問題を解釈せんと決心したり。同時に余る一年を挙げてこの問題の研究の第一期に利用せんとの念を生じたり。
(『文学論』序)

漱石は「漢詩や漢文と、英文学って、全然ちがうもの、だよね……?」ということにロンドンで気づいたらしい。「漢学にいはゆる文学と英語にいはゆる文学とは到底同定義の下に一括し得べからざる」と語っている。つまり「文学」と一緒くたにしている漢文と英文学が、まったく別ものであることに気付いたのだ。

そしてその差を漱石はロンドンで研究しよう、と決意する。1年間「アジアの文学と欧米の文学の違いについて研究しよう」、それが彼のロンドンでのミッションとなる。

漱石はその結果、独自のグローバルな文学観を持ち帰り、東大の英文学教授になり、そして『吾輩は猫である』を執筆しはじめる。

漱石がロンドンに留学していなかったら、日本の文学はどうなっていたのだろう。『吾輩は猫である』も『こころ』も『夢十夜』も存在しない国語の教科書なんてない。そういう意味で、ロンドンから漱石が持ち帰ったものは、存外日本にとって重要なものだったのである。

帰国後も「狂人」と評された

漱石の小説は、根底にこのロンドン留学生活での「英文学が、漢詩と比べて、すごく優れているというわけではない」という思想に支えられている。だからこそ漱石は英語で文学をつづらず、日本語で文学をつづるに至ったのだ。誰かが「漱石や鴎外といった明治のエリート作家が、英語ではなく日本語で文学を書いてくれたことで、日本語の寿命は延びたのだ」と言っていたが、その根底には漱石のロンドンでの日々があった。

イギリス人にも日本人にも「神経衰弱」と言われながらも、ひきこもって文学研究をしていたロンドン生活。そして帰国後もかわらず、漱石は「狂人」と評されたという。

英国人は余を目して神経衰弱といへり。ある日本人は書を本国に致して余を狂気なりといへる由。賢明なる人々の言ふ所には偽りなかるべし。ただ不敏にして、これらの人々に対して感謝の意を表する能はざるを遺憾とするのみ。
帰朝後の余も依然として神経衰弱にして兼狂人のよしなり。親戚のものすら、これを是認するに似たり。親戚のものすら、これを是認する以上は本人たる余の弁解を費やす余地なきを知る。
ただ神経衰弱にして狂人なるがため、『猫』を草し『漾虚集』を出し、また『鶉籠』を公けにするを得たりと思へば、余はこの神経衰弱と狂気とに対して深く感謝の意を表するの至当なるを信ず。
(『文学論』序)

そう、「神経衰弱にして狂人」になったからこそ、漱石は『吾輩は猫である』を書くことができたのだ、と自分で語っている。

「私は神経衰弱と狂気に深く感謝している」「だって神経衰弱で狂人になったから、あの文学を発表することができた」――そう語る漱石の文学は、神経衰弱まっただ中のロンドン生活においては、まだ、誕生していなかった。

三宅 香帆 文芸評論家

著者をフォローすると、最新記事をメールでお知らせします。右上のボタンからフォローください。

みやけ かほ / Kaho Miyake

1994年生まれ。高知県出身。京都大学大学院人間・環境学研究科博士前期課程修了。天狼院書店(京都天狼院)元店長。2016年「京大院生の書店スタッフが「正直、これ読んだら人生狂っちゃうよね」と思う本ベスト20を選んでみた。 ≪リーディング・ハイ≫」がハイパーバズを起こし、2016年の年間総合はてなブックマーク数ランキングで第2位となる。その卓越した選書センスと書評によって、本好きのSNSの間で大反響を呼んだ。『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(集英社新書)、『人生を狂わす名著50』(ライツ社刊)、『女の子の謎を解く』(笠間書院)『それを読むたび思い出す』(青土社)など著書多数)。

この著者の記事一覧はこちら
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

関連記事
トピックボードAD
ライフの人気記事