徳川家康は「忍耐強い」に実は根拠がない驚く事実 NHK大河ドラマ「どうする家康」で関心高まる家康

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また、信長は足軽鉄砲隊に三千挺の鉄砲を持たせ、三列横隊をつくって列ごとに順番に引き金を引かせ間断なく連射したとされるが、千人の人間が一列に並んで整然とした行動するのは難しいので、近年はレジ待ちのように、準備が整った足軽から順番に弾を放っていただけだという説が強い。さらに、そもそも鉄砲の数は三千もなく、千挺だったと主張する研究者もいる。

また、この戦いで勝頼は重臣の多数を失い、壊滅的な打撃を被ったとされるが、わずか数カ月後には再び軍事行動を起こして家康を悩ましていることから、長篠合戦は武田にさしたる打撃を与えていないと述べる学者もいる。

息子を切腹させたのは信長ではなく家康自身?

松平信康事件も根底から評価が変わりつつある事件だ。

家康は天正7年(1579)、正室の築山殿を殺害し、その息子であり岡崎城代であった21歳の嫡男・信康を切腹させた。徳川家の一大悲劇である。この措置を命じたのは信長だった。

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信長は、娘の徳姫を信康のもとに輿入れさせ、家康のとの同盟を強固なものとした。だが、あるとき徳姫から送られてきた書状を見て仰天する。徳姫は、信康と姑の築山殿と関係が悪化したようで、その書状には十二カ条にわたって二人を非難する文言がちりばめられていた。

そのなかに築山殿が唐人の医師と不倫関係になり、彼を通じて甲斐(現在の山梨県)の武田勝頼と内通して謀叛を企み、息子の信康を引き込んでいると記されていたのだ。

さすがにこれは放置できない。そこで信長は家康の重臣・酒井忠次を呼びつけ、一条ずつ事実を確かめたところ、十カ条まで事実と認めたので、信長は「信康に腹を切らせるよう家康に伝えろ」と申し渡したという。そこで仕方なく、家康は信康を捕らえて自刃させ、築山殿を家臣に殺害させたのだという。

ところが近年、信長の意向ではなく家康本人の意志で信康母子を死に至らしめたという説が強くなっている。その理由だが、信康一派が家康に謀叛を企んだからとか、外交方針をめぐる家康派と信康派の対立だったなど複数の説がある。

いずれにせよ、御家騒動のすえに家康が妻子を処断したのが事実なら、この事件の印象がまったく違ったものになるわけだ。

河合 敦 歴史研究家

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かわい あつし / Atsushi Kawai

歴史作家、多摩大学客員教授、早稲田大学非常勤講師。1965年、東京都生まれ。青山学院大学文学部史学科卒業。早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学。歴史書籍の執筆・監修のほか講演やテレビ出演も精力的にこなし、わかりやすく記憶に残る解説で熱く支持されている。著書に『日本史は逆から学べ』(光文社知恵の森文庫)、『歴史の勝者にはウラがある』(PHP文庫)、 『禁断の江戸史』(扶桑社新書)などがある。

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