徳川家康は「忍耐強い」に実は根拠がない驚く事実 NHK大河ドラマ「どうする家康」で関心高まる家康

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ところが近年、広忠が織田信秀に岡崎城を攻め落とされ、降伏の証として家康を織田方へ差し出したという説が登場している。さらに、人質時代に家康は駿府で虐げられていたといわれてきたが、これについても、手厚い待遇を受けていたという説が出ている。

19歳のとき、桶狭間の戦いで今川義元がまさかの討ち死にをする。すると、この合戦に参加していた家康は駿府へは戻らず、故郷の岡崎城に入り、今川と手を切って大名として独立を試みたといわれてきた。

これについても、岡崎入りを命じたのは氏真(義元の後継者)だというのだ。今回の敗戦で、織田と今川勢力の狭間にある西三河が不安定になったので、動揺を防ぐため家康を岡崎城に入れたというのだ。永禄4年(1561)4月、家康は氏真に叛旗をひるがえすが、これに関しても氏真が義元の敵討ちに動かなかったので見限ったわけではなく、氏真の支援が薄いことに不満を抱いたからだという。

家康は三方ヶ原の戦いで脱糞もしていない

周知のように三方ヶ原の戦いは、家康最大のピンチだった。元亀3年(1572)12月、徳川領に侵攻した武田信玄の大軍が、家康のいる浜松城に近づいてきた。このとき家康は、城から出て三方ヶ原で戦うが、武田軍に大敗北を喫した。浜松へ逃げる途中、家康は恐怖のあまり脱糞してしまうが、どうにか城に逃げ戻ることができた。しかし家臣のなかには、「殿が糞を垂れて戻ってきた」と大笑いする者がいた。けれど家康は、すぐに絵師を呼んで自分の恐怖にゆがんだ姿を描かせ、これを常に手元に置き、慢心したときの戒めとしたという。これがいわゆる顰像(しかみぞう)である。

けれど、脱糞の逸話はまったくの創作であり、原史彦氏によれば、顰像も三方ヶ原合戦のさいに描かせたものではないうえ、そもそも家康の肖像なのかどうかも怪しいというのだ。

信長とともに武田勝頼の騎馬隊を粉砕した長篠合戦についても、これまた通説が揺らいでいる。

教科書には「1575(天正3)年の三河の長篠合戦では、鉄砲を大量に用いた戦法で、騎馬隊を中心とする強敵武田勝頼の軍に大勝」(『詳説日本史B』山川出版社、2022年)したとあるが、武田方に騎馬隊なるものが存在したのかについては疑念をもつ研究者も少なくない。

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