徳川家康は「忍耐強い」に実は根拠がない驚く事実 NHK大河ドラマ「どうする家康」で関心高まる家康

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また、家康の人柄を語るうえで欠かせない遺言(東照公御遺訓)ついても新説がある。

「人の一生は重荷を負いて遠き道を行くがごとし。いそぐべからず。不自由を常と思えば不足なし。こころに望みおこらば、困窮したる時を思い出すべし。堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思え。勝つ事ばかり知りて、負くることを知らざれば害その身にいたる。おのれを責めて人を責むるな。及ばざるは過ぎたるよりまされり」

なんとも含蓄のある文言である。これを座右の銘とされている方もいるかもしれない。まさに人質から人生をスタートさせ、さまざまな苦労や危機を乗り越えて天下を握った苦労人・家康が語るにふさわしい言葉といえよう。

だが、じつはこれも家康作ではなく、どうやら徳川光圀(水戸黄門)の言葉を参考に、ある幕臣が創作したらしいのだ。それを明治時代になって旧幕臣の高橋泥舟が一般に広めたということが判明している。ちなみに最後の将軍・徳川慶喜は、これが家康の言葉だと信じていたという。

人質時代から大名として独立するまでの新説

このように、近年は続々と新説が登場し、これまでの家康のイメージが大きく変わりつつある。そこで本項では、驚きの新説を紹介しつつ家康の生涯を概観していこうと思う。

家康は、三河(現在の愛知県東半部)の国衆(国人)である松平広忠の嫡男として岡崎城で生まれた。弱小な広忠は、隣国の織田信秀や松平一族の圧迫を受けて領地を維持できなくなり、駿河・遠江(静岡県)の大名・今川義元に後援を求め、六歳の家康を人質として差し出すこととした。家康は親類の戸田康光に伴われて駿府(静岡県静岡市)へと向うが、途中、康光が裏切って家康を織田信秀に売ってしまった。けれど数年後、人質交換によって家康は駿府に移ったといわれてきた。

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