家臣団は家康のこの裏切りに、その前に謀反を許された恩もあって口出しできなかったと思われます。
家康は、講和の際に言った
「元通りにすべて戻す」
という言葉を
「寺が建つ前の原野に戻すという意味だ」
と強弁したという逸話が残っていますが、家康のしたたかな一面を表すものです。今川との決別や妻子奪還、そしてこの一向一揆鎮圧と、家康は目的のためには約束を平気で反故にする冷徹な一面を覗かせています。
この類の冷酷さは、のちに豊臣家への騙し討ちとも思える和議の破棄からの大坂夏の陣でも見られており、若い頃から「狸親父」と揶揄される腹黒さを持っていたことが窺えます。
家康と空誓の、その後
家康はその冷酷さや腹黒さの一方で、寛大さも持ち合わせています。そこが家康の不思議なところです。
三河一向一揆から20年後、家康はそれまで禁教としていた国内本願寺派(一向宗)を赦免して寺社の復興を許しました。その復興の中心人物が、あの空誓です。家康は自分を死に追いやろうとした空誓を赦すだけでなく、三河領内での彼の活動を認めたのです。信長や秀吉であれば宗派の赦免や活動は認めても空誓を赦すことはなかったでしょう。
しかも空誓は、家康が三河での本願寺派の赦免を決定する前に、勝手に家康の許しを得たとして活動し始めてしまいました。
これは本来であれば命を奪われても仕方のない、空誓の背信行為です。
しかし家康は、この件も不問にしました。それだけでなく三河一向一揆の原因になった寺社の特権も復活させます。さすがの空誓も家康の寛大さに心打たれ、以降は家康に心服するようになりました。
家康も空誓を認め、その晩年には尾張藩主となる九男の義直を助けてやってほしいと依頼までするほどの間柄となります。
家康という人は、その瞬間の意思決定においては目的のためには人を騙し討ちにするような冷酷さをもっていても、目的を達成したあとは、その行動を正当化するために思考を硬直化させることなく、次の瞬間にいちばん正しい判断をする柔軟さを持ち合わせていたのでしょう。その冷酷さと寛大さが、徳川家康が最終的に天下を取った大きな要因ではないかと思います。
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