ただし蓮如自身は武力行使をよしとしなかったようで、富樫政親との軋轢が起こると吉崎を退去します。その後、京都・山科にて念願の本願寺の再興を果たしました。そして蓮如のもとには次々と浄土真宗の寺院や宗派が合流し、発展していきます。
同時に、その力は蓮如の想いに反した強大な武力となって各地で領主との戦いを繰り広げました。その代表的なものが加賀の一向一揆で、蓮如と対立した富樫政親は一向一揆で滅ぼされ、加賀一国が一向宗の衆徒によって治められるという事態を引き起こしました。
この加賀での事態が戦国大名たちに一向宗の脅威を認知させることになります。こういった背景のもとに「三河一向一揆」は発生したのです。
三河一向一揆のもうひとりの主役・空誓
三河一向一揆は1563年に起こりました。原因は諸説あるようですが、三河の領主・松平家康が一向宗の力を削ごうとしたことが本質にあると思われます。この時、一揆側の指導者に選ばれたのが空誓上人です。空誓は蓮如の曾孫に当たる人物でした。
蓮如は僧侶でありながら5人の妻を娶り、じつに27人の子を成したと言われています。その子や孫たちが各地の一向宗の指導者となっているのですが、空誓も同じく三河の地を担当する指導者として赴任しました。
空誓が三河一向一揆を主導したかについては諸説ありますが、彼自身が兵を率いて戦ったという記録はあります。怪力の持ち主で、鎧を身に着け鉄棒を振り回して戦ったといいますから、なかなかの豪傑だったようです。
兵数のみならず武力もそなえていた
家康は当初、たやすく一揆を収束できると考えていたようですが、本多正信、渡辺半蔵守綱をはじめ家臣団の中からも一揆側につくものが多数出たため、想定外の苦戦を強いられます。そもそも兵となるはずの領民に信者が多く、そこに武士の信者が加わると一揆側の兵力は膨れ上がり、鎮圧する領主側の兵力は激減します。加賀の一向一揆でもこの現象が起こり、領主である富樫政親は討ち取られることになったのです。
この時点での三河一向一揆が、加賀の一向一揆と同じ結果を生む可能性は十分にありました。家康自ら必死に戦うことでかろうじて優勢を保ち、和議に持ち込むことに成功したに過ぎません。
のちに織田信長も石山本願寺と対決しますが、信長をもってしても石山本願寺を倒すことはできず講和に持ち込んでいます。それほどまでに一向宗の力は強かったのです。
家康は武力での解決を諦め、策を講じます。まずは全面的の一向宗側の要求を呑み、反乱した家臣団にもおとがめなしという信じられないほど寛大な措置を取りました。そして一揆の武力を解除したあとで、すべての寺を破却し領内での一向宗の信仰を禁じます。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら