徳川家康「三河一向一揆」で絶体絶命に陥った必然 わかりやすい教義で急成長した武力集団の正体

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当時の宗教勢力は朝廷、武家と並んで力を持っていました。

しかも、その力は武力でもあります。

当時の戦は「人」のウエイトが非常に高く、兵が多いほうが勝つというシンプルなものでした。そして、その兵は、基本的には領内の民を徴兵して構成されるもの。つまり領内の、兵となる民の多くが衆徒となった一向宗(ここでは浄土真宗、一向宗、時宗を総括)は、領主を超えるほどの潜在的な武力を持っていたわけです。彼らがひとたび集えば、領主を駆逐するほどの力を持っていました。

現に加賀では一向宗の衆徒が蜂起し、国を支配するということが起こったのです。

一向一揆は蓮如というカリスマから始まる

蓮如は当時、浄土真宗の始祖・親鸞の嫡流でありながら、衰退の極みにあった本願寺の第8代を継いだ人物です。のちに織田信長に焼き討ちされる比叡山延暦寺と対立し、仏敵と認定されて寺を破却されるという、とんでもない目にあっています。

蓮如は各地を転々とし、やがて越前・吉崎(福井県)に落ち着きました。この荒涼とした地に蓮如を慕う人々が集まったことで、吉崎は大きな発展を遂げます。この間に有能な長男・順如を廃嫡するという犠牲を払いながらも、対立していた比叡山延暦寺と和議を結びました。

このあたりの過程は教団の対立というより戦国大名の和議のようですが、蓮如のもとには遠く奥州からも信者が押しかけ、その勢力は一気に広がっていきます。

集まった信者には武士も少なからず含まれていたため、蓮如の勢力は単なる宗教としてだけではなく自治集団の性質を帯びていきます。このようにして武力が拡大したことに危機感を抱いた浄土真宗の一派である真宗高田派は、加賀守護の一門である実力者・富樫幸千代と組んで蓮如と対立。この富樫幸千代と敵対関係にあった富樫政親は、蓮如に協力を要請します。

蓮如は自派の防衛という観点から富樫政親と協力し、幸千代を滅ぼしました。

これが「一向一揆」の始まりです。

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