じつは、地位が上がるほど、3つの理由で「適切さ」のさじ加減を心得るのが難しくなっていくという。
個人も、社会も、その時代背景に応じて感覚が変化していく限り、「ユーモアの適切さ」も常に移り変わっていくものだ。
社会的に通用する冗談のレベルを考えてみるとわかりやすい。例えば、昭和の時代は、顔や体を黒や茶色のドーランで塗ったタレントが、ギャグを放って笑いを誘うというコントがあり、それは、作り手にとってもお茶の間にとっても、ユーモアとして成立していた。
だが今では、そのような表現は、人種差別を助長しているという理解が進み、シリアスなものとして受け取られる。同じように、ジェンダーやセクシャリティ、文化の違いを利用したものも、やり方によっては、非常に無神経に映ってしまう。
個人的なレベルでも、自宅で通じていた冗談が、職場でもそのまま通じることはないだろう。TPOや状況に応じて、発言は切り替えるものだ。
さらに、組織のリーダーという立場においては、「権力」に応じた適切さがどのように変化しているかという意識も必要になる。平社員や中間管理職のときに言えば、笑いをとれていた冗談も、経営者の立場になると通用しない場合があるのだ。
「パンチ・アップ」と「パンチ・ダウン」
ユーモアと地位の関係は、切り離せない。まったく同じ冗談でも、誰が言ったかによって、受け取られ方が変わってしまうからだ。
自分よりも地位の高い人にズケズケと物を言う「パンチ・アップ」は、楽しく受け入れられやすい。だが、自分よりも地位の低い人をからかう「パンチ・ダウン」は、いじめのように映り、笑えない人のほうが多いだろう。
駆け出しの若手の時代なら、どんな不遜な内容でも、うまくユーモアを交えて物申す「パンチ・アップ」ができることで、評価されることがある。
上司にとっては、自分の度量や人間味のある部分を見せられる相手になるし、同僚にとっては、頼もしくて共感できる存在になるからだ。
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