家臣分裂!家康は「最大危機」をどう乗り切ったか 統一まであと一歩で「三河一向一揆」が勃発
今年の大河ドラマ『どうする家康』は、徳川家康(松平元康)が主人公。主演を松本潤さんが務めている。家康を襲った最大の危機の1つとされているのが、『三河一向一揆』だ。家康はこの危機をどう乗り越えたのだろうか。
今川義元の人質として育った元康(家康)。義元の死後、元康は尾張の織田信長と結び、駿河の今川氏真(義元の後継者)に反旗を翻した。
永禄4年(1561)4月頃から、東三河への侵攻を開始したのだ。元康は西郡上之郷城(蒲郡市)にいた今川家の家臣の鵜殿長照を攻め、永禄5年(1562)には、長照を討った。
長照の子2人を捕虜にしたこともあり、駿府にいた元康の妻(築山殿)子(信康と亀姫)との「人質交換」が行われることになった。長照の母は、亡き今川義元の妹であり、長照は今川氏真と従兄弟の関係にあったからだ。妻子を取り戻した元康は、安堵しただろう。
元康は織田信長との連携を強化
今川からの離反が進む一方で、元康は織田信長との連携を強化する。信長の次女・徳姫と、元康の長男・竹千代(後の信康)との婚約が成立したのだ(1563年)。
この永禄6年(1563)には、三河統一もあと一歩というところまで、元康は迫っていた。しかし、そんな元康に危機が訪れる。三河国で一向一揆が勃発したのである。
三河一向一揆(1563~1564年)は、武田信玄との三方ヶ原の合戦(1573年)、本能寺の変直後の伊賀越え(1582年)と並んで「家康三大危機」の1つと言われている。
その大きな危機を元康がどのように乗り切ったのかを見る前に、一向一揆とは何か、そして、なぜ三河で一向一揆が起こったのかを見ていこう。
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