家臣分裂!家康は「最大危機」をどう乗り切ったか 統一まであと一歩で「三河一向一揆」が勃発

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さて、永禄7年(1564)正月11日には、土呂・針崎・野寺の一揆勢が、上和田砦(岡崎市)に押し寄せる。この砦には、大久保一族が籠もっていた。一揆勢が攻め寄せてくると、砦の者は矢倉にのぼり「竹筒の貝」を吹いたという。その音を聞いた岡崎城の元康はすぐに馬に飛び乗り、先頭に立ち、砦に駆けつけた。元康の姿を見た一揆の者たちは、バラバラになって逃げ出したそうだ。

敵の大将が怖いというよりは、これまで仕えていた主君に槍を向けるのが忍びなかったのだろう。

『三河物語』の中には、元康が戦場に駆けつけると逃げ出す一揆勢の姿が何度も描かれている。こうした有様であったので、各所で攻防が繰り返されたとはいっても、戦況は元康に有利に展開した(永禄6年10月には、吉良義昭が籠もる東条城を攻撃し、12月までにはこれを攻略していた)。

ついに一揆方から和議の話が出てくる(1564年2月頃か)。一揆方は「敵対したことをお許しください。また、寺も以前のように置いてください」と提案してきたという。

元康は「和議を結ぼうとする者の命は助け、寺も元のままとするが、一揆の首謀者は処罰する」と返答。

一揆方は「ほかの者(首謀者のことか)もお助けください」と主張したので、そこで和議は一時、中断する。

そこで、大久保忠俊(元康方)が元康を「首謀者も助命してください。彼らを助けたら、我が軍は増えましょう」と説得し、和解に至ったという(『三河物語』)。

一揆が解体すると約束を反故に

元康は、一揆参加者の赦免や、寺内の不入権の保証をその時には約束したが、一揆が解体すると、それを葬り去る。本多正信・正重兄弟、渡辺秀綱らは追放された。

また、元康は土呂・針崎・佐崎・野寺の堂塔を破壊しようとする。さらには、一向衆徒に宗旨替えを迫ったのである。

「以前と同じようにするとの約束では」と衆徒が文句を言うと「以前は野原だったのだ。以前のように野原にせよ」(『三河物語』)といい、元康は真宗寺院を破壊していく。これが三河一向一揆の顛末である。

濱田 浩一郎 歴史学者、作家、評論家

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はまだ こういちろう / Koichiro Hamada

1983年大阪生まれ、兵庫県相生市出身。2006年皇學館大学文学部卒業、2011年皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。専門は日本中世史。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。『播磨赤松一族』(KADOKAWA)、『あの名将たちの狂気の謎』(KADOKAWA)、『北条義時』(星海社)、『家康クライシスー天下人の危機回避術ー』(ワニブックス)など著書多数
X: https://twitter.com/hamadakoichiro
 

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