家臣分裂!家康は「最大危機」をどう乗り切ったか 統一まであと一歩で「三河一向一揆」が勃発

拡大
縮小

「一向一揆」とは、浄土真宗(鎌倉時代初期の僧・親鸞が開祖)本願寺派の門徒たちが中心となり起こしたものだ。

本願寺派は、蓮如(1415〜1499。室町時代の僧)の精力的な活動によって、教団を拡大した。蓮如は、北陸を中心に布教した後、京都に山科本願寺、大坂に石山本願寺を創建し「本願寺中興の祖」とも呼ばれる人物だ。

蓮如は一時、三河にも立ち寄ったとされている。三河でも、蓮如の活動期間中に、本願寺派の寺院が建立されたりしている。

本願寺派の僧侶たちは、世俗の権力者に従わないということが度々あり、長享2年(1488)には加賀国守護の富樫政親を滅ぼし、加賀を本願寺法王国としたことは有名な話だ。

一向宗(浄土真宗)の門徒には、農民や非農業民(職人など)が多かったとされるが、武士もいた。そのことが、松平の家中を二分し、元康を危機に陥らせることになるのである。 

三河で一向一揆が起きた理由

では、なぜ三河で一向一揆が起こったのか。『三河物語』には「野寺(浄土真宗の寺院・本證寺。安城市)の寺内に悪者(犯罪者か)がいたのを、酒井雅楽助(正親)が押しこんでつかまえた」ことが発端だったと記されている。

寺院の不入権(課税や外部権力の立ち入りを拒否できる権利)を犯したことが理由だというのだ。

また、『松平記』には、元康の家臣(菅沼氏)が上宮寺(真宗寺院。岡崎市)に踏み込み、乾籾を兵糧として奪ったことが一揆の要因だと記されている。いずれにしても、元康側が寺院の不入権を否定しようとしたことが要因だという。

このことから、元康側が本願寺系寺院が持つ権益(水運や商業)を得たいがために、意図的に一揆を誘発したのではないかとする説もあるほどだ。

しかし、三河国統一を目前に控えた時点で、元康がそのような危険な行為をするか疑問である。一揆は仕組まれたものというよりは、兵糧米の徴収などに絡み、偶発的に起こったものと見るほうが自然ではないか。

三河一揆が元康にとって、やっかいだったのは、松平家臣のなかにも門徒(信者)が多く、自らに叛いたからだ。一族をあげて一揆に加わる渡辺氏のような例もあれば、一族が敵味方に分かれる場合もあった。

次ページ揺れ動く元康の家臣たち
関連記事
トピックボードAD
キャリア・教育の人気記事
トレンドライブラリーAD
連載一覧
連載一覧はこちら
人気の動画
【田内学×後藤達也】新興国化する日本、プロの「新NISA」観
【田内学×後藤達也】新興国化する日本、プロの「新NISA」観
【田内学×後藤達也】激論!日本を底上げする「金融教育」とは
【田内学×後藤達也】激論!日本を底上げする「金融教育」とは
TSUTAYAも大量閉店、CCCに起きている地殻変動
TSUTAYAも大量閉店、CCCに起きている地殻変動
【田内学×後藤達也】株高の今「怪しい経済情報」ここに注意
【田内学×後藤達也】株高の今「怪しい経済情報」ここに注意
アクセスランキング
  • 1時間
  • 24時間
  • 週間
  • 月間
  • シェア
会員記事アクセスランキング
  • 1時間
  • 24時間
  • 週間
  • 月間
トレンドウォッチAD
東洋経済education×ICT