家臣分裂!家康は「最大危機」をどう乗り切ったか 統一まであと一歩で「三河一向一揆」が勃発
後者の事例としては、本多氏が有名だ。後世、家康の謀臣として名高い本多正信は、この時は一揆方についた。
他方、剛毅な性格から「鬼作左」と恐れられた本多作左衛門重次や、徳川四天王に数えられる本多忠勝は、元康方であった。
石川氏のなかでも分裂は起こり、石川数正は元康に味方したが、石川重康や正俊は一揆に与した。本多忠勝や石川数正らのように、元康が幼少の頃から近くに仕えていた者が、元康方になっている。また、一族のなかでも嫡流の者が元康方になったとする見解もある。
その一方で、松平譜代の重臣・酒井忠尚は一揆方に属した。忠尚は元来、今川に心を寄せる者であった。
三河で一揆が勃発すると、元康に一時は従っていた豪族たちも、再び背くようになる。
東条(愛知県西尾市)の吉良義昭などもその1人であった。八ツ面城(西尾市)の荒川義広や、六栗城(愛知県幸田町)の夏目吉信らも元康に背き、駿河の今川方と手を結ぼうとする。家臣団だけではなく、松平庶流家のものたち(桜井松平の家次、大草松平の四郎)も一揆に加わった。
元康が対応を誤るとすべてが無に
こうして見ていると、元康が対応を誤れば、彼がこれまで築きあげてきたものがすべて無になる可能性もあったと言えよう。家中を割る騒動に、元康はどう対応したのか?
元康は、一揆方との全面対決を選んだのである。『三河物語』は永禄6年(1563)正月に、門徒衆が集まり、土呂(本宗寺。岡崎市)、針崎(勝鬘寺。岡崎市)、野寺(本證寺。安城市)、佐崎(上宮寺。岡崎市)に籠もり、一揆を起こしたと記す。
同書によると、一揆勢は主に土呂・針崎・佐崎に立て籠もったという。戦いは各所で見られたが、矢作川の東・六栗に城を構えた夏目吉信(一揆方)は、深溝松平の伊忠(元康方)によって攻められていた。伊忠側が優勢になり、夏目は蔵のなかに籠もるほど追い詰められてしまう。
そうしたところで、元康(家康)は伊忠に使者を遣わし、伊忠の戦功を称賛したうえで、夏目は憎いが籠の中の鳥同様になったのだから許してやってはどうかと提案した。
伊忠は最初、納得できないと不満を漏らすが、最終的には、お言葉ならば仕方ないと矛をおさめた。
この元康の処置をみて、人々は「許されるはずもない夏目を許したことは、何と慈悲深い」と感動したという(『三河物語』)。元康のこうした対応は、一揆勢への揺さぶりであったかもしれない。抵抗しても、場合によっては許されることを示したのだ。
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