ひるがえって、日本画では、視点は描く対象に沿って自在に動く。遠景にある富士山にも、手前の道を歩く人物にも等しく焦点が当たっている。それゆえ、遠近法は成立しにくい。絵巻物や屏風(びょうぶ)絵のようなスタイルでは、描き手の視点は、空間的のみならず時間的な意味でも「移動」する。すなわち、1人の人間の一生や、ある物語の進行を1枚の画面の中に描き切ってしまう。
この話は、たぶんツイッターで誰かの書き込みからリンクした先で読んだものだ。メルマガの記事だったのか、ブログのエントリーだったのか、あるいは何かの書籍の書評だったのかもしれない。
いくつかの検索ワードで探したのだが、オリジナルが見つからなかった。で、申し訳ないのだが、記憶から引用させてもらっている。
私がこの話を紹介しているのは、順序としては、ウェブで読んだこの洋ゲーの視点の話が、いつだったか自分たちが話題にしていた夢の話に似ていることに気づいたからで、それらの「視点」の違いには、もしかして、われわれの「自意識」の問題が隠れているのではなかろうかと考えたからだ。
大げさな仮説を振り回すつもりはない。
子どもの自意識は「友だち」に依存している
ただ、私は、子どもの自意識が、子どもにとっての外界すなわち「友だち」に依存しているということを確認しておきたかったのである。
われわれは、子ども時代の映像を「夢」として記憶し、それに「友だち」というタグをつけて処理している。そういう意味でいえば、「友だち」は、単に親しく付き合っている人間というよりは、われわれの少年時代に戻すためのスイッチなのかもしれない。
大人であるわれわれの自意識は、個人的で、内的で、固定的なものだ。私は私であり、私以外のものではあり得ない。が、子どもたちにとって、「ボク」なり「あたし」は友だちとセットになっている。そこのところが、「友だち」という現象を解く鍵なのだと私は考えている。まあ、解いたところで何がどうなるというものでもないわけだが。
さて、小学生にとってクラスメイトの半数以上は友だちだった。
しかしそれは、年齢とともに減っていく。
中学生になると、クラスの中で頻繁(ひんぱん)に行き来する仲間の数は5人ぐらいに減少する。もちろん、ほかの生徒とも一応の付き合いはあるし、頻繁に付き合うメンバーは、時とともに変遷したり入れ替わったりする。が、トータルの人数は増えない。親しい仲間が2人増えれば、それまで親しかった2人と、なんとなく疎遠になる。つまり、中学生ぐらいになると、友だちと“より”「深く」付き合うようになるわけで、そういう「腹を割って話せる」友だちは、どうしても数が限られる。