結論からいえば、普通、夢は、自分視点の映像として提供される。ということは、夢の中では、「自分」は、「カメラアイ」そのもので、だから、基本的に、被写体として撮影されることはない。ということは、夢の中の絵には、登場人物としての自分は出てこないことになる。
が、私を含めた何人かは、「子どもの時の自分」が映像として登場する場合があることを主張した。
そう。おっさんになってしまった現在の自分の姿を夢の中で見た記憶はないのだが、子どもの頃の自分は、時々自分の夢の中に出てきている気がする。これは、かなり不思議なことだ。が、本当の話なのだ。
私の場合、夢の中に登場する映像としての子どもである私は、意識として「本人」でもある。ともあれ、夢の中で、私は小学生の子どもに戻っており、そういう時、私は映像を伴った姿で、自分の意識の中に登場しているのである。
「それ、お前がどうかしてるだけだぞ」
という意見もあった。
そうなのかもしれない。
子どもの自意識は「自分」を外側から見ている?
が、憶断(おくだん)すればだが、ある年齢までの子どもの自意識は、単独の人間としてではなくて、自分を取り巻く環境をまるごと一つのセットとして含んでいる。つまり、彼らは、「自分」という存在を、内側からではなくて、外側のカメラから見ている気分で暮らしているはずなのだ。
自他が未分化だといういい方はあんまりに乱暴かもしれない。が、人が子どもであるということは、「友だちに囲まれている環境」と「自分が存在している」ということが、ほぼ等価であるような一時期を指しているはずなのだ。
関連して、以前読んだ記事の話をする。
「洋ゲー」と呼ばれる、アメリカ製のゲームは、主人公視点のカメラで描写される場合が多く、対して日本製のゲームは主人公を含めた場面をカメラマンが撮影した設定の画像が多いという話だ。
この違いは、洋画と日本画の違いにも及ぶ。洋画では、描き手の視点は固定されており、であるから、描かれる絵画は、必然的に、その確固たる視点から切り取った瞬間としてカンバスに固定される。