社会人の知人「親友」として腹を割るのが難しい訳 小田嶋隆「敬語の関係は友だちに着地しにくい」

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親友
どれほど仲良くなったとしても壊せない「壁」がある(写真:Fast&Slow/PIXTA)
友だちがいるって本当はウソなんじゃないのか。
友だちの友だちは他人。人と人とがいともたやすくつながってしまう、そんな世の中で、はたして友だちとは何だろう?
2022年6月に他界したコラムニストの小田嶋隆氏が、自ら代表作と明言していた小田嶋隆クラシックス3部作、第2弾『小田嶋隆の友達論』から一部抜粋、再構成してお届けします。
<※本書は2015年に太田出版から刊行された『友だちリクエストの返事が来ない午後』を底本としています>

バカな時間を共有した人間こそ「友だち」

たとえばの話、「友だち」という言葉を、単純に「親しく行き来している人間」と定義すれば、いま現在でも、十やそこらの顔を思い浮かべることができる。私も、若い頃に比べれば、多少は人当たりがよくなっている。で、日常的に交際している人々とは、おおむね良好な関係を保っている。つまり、私は、昔自分が考えていたよりは、ずっと社交的な中年男になりおおせているわけだ。

ただ、その、現在親しく付き合っている彼らを、私は、「友だち」であるというふうには考えていない。

親しみを感じないとか、好きじゃないということではない。好ましい人柄だと感じているからこそ行き来しているわけだし、何回か会ううちにはそれなりの親近感を抱いてもいる。

では、どうして彼らは友だちではないのか。

おそらく、バカな時間を共有していないからだ。

私の中では、「友だち」は、「愚行」とわかちがたく結びついている。

実際にはそんなに深い付き合いがなくても、古い知り合いの中には「友だち」がたくさんいる。

歌舞伎町でナンパをして、一緒にコワいお兄さんに追いかけられたエトウとは、大学卒業以来、30年以上会っていない。それでも、友だちだと思っている。

今でも、たぶん、顔を会わせれば、一瞬であの時代に戻ることができるはずだ。というのも、私たちは、後ろも見ずに百人町(東京・新宿)まで走り切るほどコワい思いを共有していたからだ。が、それもこれも、過ぎてしまえば、あんなに楽しかったことはない、といった調子で、記憶は粉飾される。かように、愚行は、決定的なものだ。だからこそ、若い時のバカは買ってでもしろと、賢そうな若者を見かける度に、私はそう言いたくなるのだ。彼らも、50歳を過ぎればわかる。男にとって本当にとりかえしがつかないのは、二度とバカなことができない年齢に到達してしまうことなのだ。

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