さて、それほど話が合うのなら、同業者の中に友だちができても良さそうなものなのだが、なぜなのか、これがなかなかそういう次第にはならない。同業者同士は、多くの場合、顔をそむけ合って握手するみたいな、奇妙な関係を形成するに至る。親しいのに打ち解けない。あるいは、話は弾むのに気を許すことができない。
どうしてだろうか。
思うに、「言葉」が邪魔をしている。
もう少し具体的にいえば、敬語で始まる関係は、友だちに着地しにくいということだ。
「忙しいってのは、翻訳すると、オレと会うのが面倒だということか?」
「お前が面倒くさい奴だという見方には賛成だけど、今回は本当に忙しいんだよ」
「そんなこと言うなよ。友だちだろ」
「友だちなら忙しさぐらいわかれよ」
と、この種の無遠慮な会話は、ガキの時代を共有した人間同士の間でないと不可能だ。
毎週のように電話をし、同じ仕事で頭を付き合わせ、さまざまな共同作業に従事している担当編集者との付き合いは、ある意味で、古い友だちよりも深い。
敬語で始まった関係は敬語から外に出られない
が、それでも、どんなに親しくなっても、敬語で始まった関係は、敬語から外に出られない。そして、敬語を介して会話をしている限りにおいて、二人の間には、真摯(しんし)な感情が通わないのだ。
というよりも、そもそも、敬語というのは、「感情を抑制する」目的で発明されたもので、上下関係を孕(はら)む人間同士のやりとりを不必要に複雑化することを防ぐために、われわれは敬語を使っている。仕事上の関係も、できれば感情に搦め捕られない方がよい。だから、社会的な関係は、敬語を要請する。
互いの名前を呼び捨てで呼び合う関係(友だちということ)の方が、むしろ特殊な人間関係だと言い換えてもいい。
ひとつ不思議なのは、海外で知り合ったり、一緒に海外旅行をした人間とは、わりと簡単に「友だち」になれるということだ。無論、場所が海外であれ、1日や2日行動を共にしたぐらいのことで、いい大人が即座に友だちになるというものではない。が、外国語を使う環境下で知り合った人間とは、敬語を離れた、一種特別な関係ができあがる。と、少なくとも、双方の間には、現地にいる間は、擬似的な友人関係が形成されるものなのだ。