社会人の知人「親友」として腹を割るのが難しい訳 小田嶋隆「敬語の関係は友だちに着地しにくい」

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ついでに言えば、外国人の知り合いも、たやすく「友だち」になれる。言葉の壁が介在してなお、だ。このことはつまり、カタコトの英語で語り合う方が、敬語の日本語で交流する場合よりは距離が近いということなのかもしれない。

とにかく、外人さんが

「コール・ミー・ジョニー」

みたいな挨拶を交わしながら、握手をしている姿は、われわれから見て、実にうらやましい図だ。彼らは、年齢が10歳以上隔たっていても

「ヘイ、ポール」

「ハーイ、トム、ホワッツアップ?」

てな調子で対等に言葉を交わすことができる。

もちろん、フラットに語っているのは、言葉の上だけのことで、彼らには彼らなりの上下関係や緊張があるといえばあるのだろう。

が、それでも、敬語という距離調節言語を使わずに済んでいるだけでも、英語話者は、われわれに比べて友だちを作る上では有利な位置にいるはずなのだ。

「オレ」の私は本当のことを言っている気持ちに

古い友だちとの再会は、同時に「敬語を使っていない自分」に再会する機会でもある。そして、「敬語を使わないオレ」は、「私」を解放する。

少なくとも私は、一人称の主語として「オレ」という人称代名詞を使っている時は、自分が本当のことを言っている気持ちになる。

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実際には、主語が「オレ」でも、遠慮している時は遠慮しているわけだし、「私」に語らせている時でも、本音を開陳しているケースがないわけではない。

が、解放感は、まるで違う。

もしかすると、方言を使う人たちは、自分のお国言葉に戻った時に同じような解放感を味わっているのかもしれない。とすると、明確な方言を持たない(東京方言が、かなりの部分、共通語に吸収されてしまっているという意味で)東京の人間は、その点で、不利なのかもしれない。

というよりも、私にとっては、子ども時代の言葉が自分のお国言葉になるわけで、ということはつまり、オレは故郷から追放されているのだろうか。

友を探し求めるものは不幸である。
というのは、忠実な友はただ彼自身のみなのであるから。
友を探し求めるものは、己自身に忠実な友たりえない。
byヘンリー・D・ソロー
愛と勇気だけが友だちだったアンパンマンの孤独について考えたことがあるかね?
by小田嶋隆
小田嶋 隆 コラムニスト
おだじま たかし / Takashi Odajima

1956年東京赤羽生まれ。早稲田大学卒業。一年足らずの食品メーカー営業マンを経て、テクニカルライターの草分けとなる。国内では稀有となったコラムニストの1人。著書多数。2022年、65歳で逝去。

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