真の仲間を持たない人々の決して相容れない論争 小田嶋隆「それは仲間にしかわかってもらえない」

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論争
仲間を論理で定義できるのか(写真:aijiro/PIXTA)
友だちがいるって本当はウソなんじゃないのか。
友だちの友だちは他人。人と人とがいともたやすくつながってしまう、そんな世の中で、はたして友だちとは何だろう?
2022年6月に他界したコラムニストの小田嶋隆氏が、自ら代表作と明言していた小田嶋隆クラシックス3部作、第2弾『小田嶋隆の友達論』から一部抜粋、再構成してお届けします。
<※本書は2015年に太田出版から刊行された『友だちリクエストの返事が来ない午後』を底本としています>

ツイッターでみかけた面白い論争

だいぶ以前のことだが、ツイッターを眺めていて、ちょっと面白い論争にでくわした。

「面白い論争」というのは、悪趣味ないい方だったかもしれない。

ネット上の論争において、第三者であるわれら観客が注目しているのは、議論の帰結や結論の行方ではなくて、論争の当事者が余儀なく晒(さら)すことになる怒りや憎しみだ。ということはつまり、私どもネット雀の野次馬が面白がって喝采(かっさい)を送っているのは「他人の恥」そのものだったりするわけだ。わがことながら、品のない観戦マナーだとは思う。が、悪趣味であれなんであれ、面白いのだから仕方がない。

ツイッターを舞台にしたバトルは、いつでも同じ展開をたどる。発火して2時間後には、真っ赤に燃え上がり、半日後には収束している。結論は出ない。着地もしない。ただただ一本調子に白熱し、赤熱し、発火爆発し、空中分解する。でなければ、燃料切れで自然鎮火する。

論争は、勝利者も敗北者も生まない。双方が別々に勝利宣言をして、自分のタコツボに帰って行くだけだ。観客は、適当に掛け声をかけながら、勝敗や採点よりも、もっぱら競技者の顔面が打撲で腫(は)れ上がっていく様子を観賞して楽しむ。

私は、参加していない。途中で口をはさもうかとも思ったのだが、自分の考えをうまく説明できる自信がなかったので、黙ることにした。というよりも、正直に言うなら、仲裁者がとばっちりを受けて殴られる展開を恐れたのかもしれない。

議論は、「仲間」という言葉をきっかけに、論争に発展した。もっとも、私自身、全過程をウォッチングしていたわけではない。実際問題として、ツイッター上の議論を第三者が公平に観察するのは、不可能に近い。なぜなら、フォローしていない人間同士が投げかけ合うリプライ(相手を指定した呼びかけや回答)は、第三者のタイムライン(ツイッター上の各自の表示領域のこと)には反映されないからだ。

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