真の仲間を持たない人々の決して相容れない論争 小田嶋隆「それは仲間にしかわかってもらえない」

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まあ、反則である。だって、他人の言葉を勝手に定義し直して、それを非難しているわけだから。

ただ、こういう反則技を使ってまで「真の仲間」をやっつけたくなった気持ちが、私にはやっぱりわかる。それほど、「真の仲間」という言葉は、1人で頑張っている人間にとっては、ムカつくのだ。「仲間」に関しては、ほんの少しの感覚の違いが、実に大きな壁を作ることになる。

「双方の気持ちがわかる」と思っていた私にしたところで、その気持ちを彼らにわかってもらえたかどうかは、疑わしい。私の考える「仲間」は、A氏にもB氏にもまるで理解してもらえなかったかもしれない。

「何をズレたこと言ってるんスか?」

「そういう定義は、気持ち悪いです」

ほぼ間違いなく、私は拒絶されたはずだ。

「わかったような顔しないでください」

と。双方から。

面白い現象だ。

仲間について語る人間たちは、決して仲間になることができない。なぜなら、「仲間」の定義が、違っている者同士は、お互いの「仲間意識」を不潔に感じるからで、ということはつまり、「仲間」のことは「仲間」にしかわかってもらえないからだ。

友達も仲間も心が決めるもの

なんという気持ちの悪い同語反復だろうか。

ことほどさように、友情は厄介だ。もしかして、本当の友だちとは、友だちの定義みたいなくだくだしい議論や前提を必要としない存在のことなのかもしれない。

小田嶋隆の友達論
『小田嶋隆の友達論』(イースト・プレス)。書影をクリックするとAmazonのサイトにジャンプします。

「なんであいつがオレの友だちなのかって? 理由なんかねえよ」

と、私の友だちならそう答えるはずだ。

「仲間と友だちの違い? そういう質問をする奴は仲間でもないし友だちでもないぞ」

と、私は答える。

友だちも仲間も、心が決めるものだ。

相田みつをの分野の言葉だ。

ということは、論理で定義しようとすればするほど遠ざかるに決まっている。

定義できなくったっていいじゃないか。にんげんだもの。みつを。

山から遠ざかればますます
その本当の姿を見ることができる。
友人にしてもこれと同じである。
byアンデルセン
むしろ、遠くから見て美しい稜線も、
近付いてよく見れば石と泥の堆積に過ぎないということなのでは?
by小田嶋隆
小田嶋 隆 コラムニスト
おだじま たかし / Takashi Odajima

1956年東京赤羽生まれ。早稲田大学卒業。一年足らずの食品メーカー営業マンを経て、テクニカルライターの草分けとなる。国内では稀有となったコラムニストの1人。著書多数。2022年、65歳で逝去。

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