真の仲間を持たない人々の決して相容れない論争 小田嶋隆「それは仲間にしかわかってもらえない」

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そんなわけなので、私は、議論の途中から、自分の目に見える部分だけを眺めていたに過ぎないということを断った上で、以下、当日の論争を再現してみる。

どちらが先にちょっかいを出したのかはわからない。

ただ、論争の前提として、A氏とB氏の間には、対話を始める以前から、感覚ないしは、意見の違いが介在していたのだと思う。要は、「仲間」という言葉をめぐって交わされていた論争は、本当のところ、もっと奥行きの深い、双方の人生観や世界観そのものを問う本格的な議論だったということで、私が面白いと思ったのもその点だったのである。

21世紀の人間は、「仲間」という言葉を使う時に、なんだかとても神経質になる。われわれは、他人を罵(ののし)る時も、自慢をする時も、自己アピールをする時も、自分自身のスペックや能力ではなくて、自分が持っている「仲間」の数や質を通してそれをする。

なんとも不思議な話だ。

「仲間」の定義は人によってかなり隔たっている

ある時期から、われわれは、学歴や社会的地位よりも、「仲間」を誇るようになっている。同様にして、誰かを誹謗(ひぼう)する時も、肩書や大学の名前ではなくて「仲間」を罵る。実に奇妙な習慣だ。しかも、その「仲間」の定義は、人によってかなり隔たっている。だからこそ、仲間をめぐる対話は、必ずや荒れる。

A氏は、20代のブロガーで、その道ではそれなりの有名人だ。彼は、以前から自分のブログやツイッターの中で、組織にぶら下がる生き方を執拗に攻撃してきたことで知られている。

それもそのはず、「起業」ないしは「ノマド」という生き方が、A氏が年来掲げてきた「旗」であり、彼自身のセールスポイントになっている。彼の主張するところによれば、企業や国家の庇護から離れて、どんな小さい稼ぎ口であっても、自分の力で種を見つけていく処世こそが、これから先の流動化する世界においては、一見不安定に見えて、実はもっとも時代にフィットした生き方だということになる。

彼の主張の当否は、ここでは問わない。

大切なのは、彼のものの見方やもののいい方に対して「サラリーマンをバカにしている」と反発する人々が、一定数いるということだ。

「真の仲間がいないんだろうな」

と、B氏がA氏にそんな言葉を投げたのも、おそらくはそこのところに対する反応だった。

「組織にぶら下がっている人間」

「会社に飼われている社員」

「仲間とツルまないと何もできない組織人」

と、何を言うにつけても、A氏の言葉には、日本人の集団主義に対する揶揄(やゆ)の響きがつきまとっている。

次ページA氏の気持ちに共感しながらも、B氏の気持ちも理解できる
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