「古文・漢文不要論争」が毎年こうも白熱する背景 「入試に役立つ」と答える国語教員の無防備さ

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――不要派の指摘で「これは手強い」と思ったものはありますか。

「古典教育は重要だ」といっている必要派に対して不要派が用意したのが、以下の3つのハードルだ。

1つは、「そのことは、古典以外でも学べるんじゃないですか」。

2つ目が、「それは、原文で学ばなくてはいけませんか」。

そして3つ目が、「必修でなくてはいけませんか」。

否定論者から、このハードルを突きつけられただけでも、私はシンポジウムをやった価値があったと感じた。これをクリアできる理由がないと、古典否定論には響かないと気がついた。

「文化的な自爆テロ」になってしまう

――たとえば2つ目の「原文で学ぶ必要性」に対して、どういう反論が可能でしょう。

現代語訳で学べばいいという指摘は根強くあるが、それは古文で記された膨大なリソースの存在に対して目をつぶっているだけだ。

古文や漢文を読むスキルは、日本がこれまで積み上げてきた知と情報にアクセスする重要なツールだからだ。わずか150年前の日本語でも文語で書かれているが、学校で古典を学ばなくなったら、いざ必要になったときに読むことができなくなってしまう。

韓国が1970年前後に漢字を廃止したためにハングルしか読めなくなってしまったことを、ある保守系論客が「文化的な自爆テロ」と称しました。古文を読めないようにしている日本も同じ道を歩んでいることになる。

――実際、2022年度から始まった高校国語の新しい学習指導要領では、古文、漢文の占める比重が下がりました(詳細は「漱石『こころ』学ばず『高校国語実用シフト』の功罪」)

高校1年生は、今年度から「現代の国語」という新しい科目がスタートした。聞く、まとめる、話す、プレゼンテーションする、という「実生活における国語の諸活動」(文部科学省「現代の国語」解説)の能力を養うため、というのは一定の説得力がある。

こうした学びに席を譲って古典の比重が2分の1から3分の1になるというのは、適切な分量だといわざるを得ない。

ただ、これが極端に圧縮されたり、入試に出なくなったら別問題。古典を読む最低限の力を残すことは、やはり現代の日本人にとって必要だ。

1970年生まれ。金沢大学文学部卒、九州大学大学院文学研究科修了。博士(文学)。日本学術振興会特別研究員(人文科学系PD東京大学)などを経て、2008年から現職。著書に『親孝行の日本史』(中公新書)、編著に『古典は本当に必要なのか、否定論者と議論して本気で考えてみた。』(文学通信)などがある(写真:記者撮影)

――古典不要論の背景には、即戦力になるもの以外は「不要」と切り捨てる社会的風潮がありそうです。

今いらない、お金にならない、といった理由でこれまで積み上げてきたものを軽視する姿勢は、最近ことに目立っている。思いつきや、口先だけのレトリックであるにもかかわらず、自分が人類の中で初めて思いついたかのように振る舞って「はい、論破」と。こうした姿勢は、古典軽視とも根深く繋がっているように思う。

ただ実際は、多くのアイディアがすでに過去に指摘されている。たとえば私が研究している江戸文学の町人物(ちょうにんもの)などを読んでいると、今ビジネスにおいて大切だといわれていることはだいたい網羅されていることがわかる。

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