「古文・漢文不要論争」が毎年こうも白熱する背景 「入試に役立つ」と答える国語教員の無防備さ
ーー「古典は必要か」をめぐっては、毎年のように議論が起こっています。
「古典は本当に必要なのか」と題するシンポジウムを2019年に企画したことがある。古典の要・不要をめぐってはインターネット上などでときに熱い議論になるが、「不要派」に対して反発し、その必要性を唱える研究者や教育者などが有効な反論を持っていないのではないか、と考えたからだ。
われわれが「古典は重要で、絶対に必要だ」と怪気炎をあげたとしても、内輪で盛り上がっているに過ぎず、不要派には一切響かないだろう。このままでは、早晩、古典教育はほんとうに消滅してしまう、という危機感があった。
そこで、一度古典不要派の意見を徹底的に聞いて、それに対する答えを真剣に考えよう、というのがシンポジウムの意図だった。
「国語教員の既得権益」という批判
実際、シンポジウムでは「必要派」の研究者たちの無防備さが露呈してしまった。いったいなぜ古典が必要なのか、彼らがいかに真剣に考えてこなかったかがわかった。
とくに印象的な発言がある。このシンポジウムの続編として高校生が企画した「高校に古典は本当に必要なのか」という会で、高校生からの「古典は何の役に立つのか」という問いに、ある高名な日本文学の研究者が答えた。するとその先生は「なぜ役に立っているかというと、1つは入試です」と答えてしまった。
不要派の指摘に「古文や漢文は必要ないが、国語教員の既得権益を守るために続けられている」というものがあるが、これではそう批判されても仕方がなかろう。
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