スマホ普及で私たちの「孤立」と「孤独」が失われた 「追悼式」なのに彼女がスマホを触っていた理由
実際、〈寂しさ〉は旧来的な共同体が崩壊した都市社会に生きる現代人に、宿業のようにのしかかるものだとアーレントは考えていました。私たちはみな、どこにいてもアットホームな気持ちになれない余所者(故郷喪失者)のような心理になる素質を持っており、その気持ちを忘れるために、何かや誰かと一緒にいたいと望む寂しがり屋なのです。
スマホという新しいメディアは、〈寂しさ〉からくる「つながりたい」「退屈を埋めたい」などというニーズにうまく応答してくれます。スマホは、いつでもどこでも使えるだけでなく、スマホを含むさまざまな情報技術が、私たちのタスクを複数化し、並行処理を可能にしています。
〈孤立〉は腐食し、それゆえに〈孤独〉も奪われる
コミュニケーションも娯楽もその他の刺激も流し込み、自己対話を止めて感覚刺激の渦に巻き込んでくれるマルチタスキングは、つながりへの欲望も、退屈や不安も覆い隠してくれます。
しかし、〈寂しさ〉からくるマルチタスキングは、いろいろな刺激の断片を矢継ぎ早に与えるものなので、一つ一つのタスクへの没頭がありません。そうすると、ふとした瞬間に立ち止まったとき、「あれは何だったんだ」と虚しくなったり、つながりの希薄さ(つながっていても一人ぼっち)を実感したりすることになります。
常時接続が可能になったスマホ時代において、〈孤立〉は腐食し、それゆえに〈孤独〉も奪われる一方で、〈寂しさ〉が加速してしまうにもかかわらず、私たちはそうした存在の仕方の危うさに気づいていないように思えます。
これまで論じてきた問題点に、スマホというメディアの特性を重ねると、〈寂しさ〉という問題が前景化してくるということです。
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