スマホ普及で私たちの「孤立」と「孤独」が失われた 「追悼式」なのに彼女がスマホを触っていた理由
いくつかの研究が示唆するところでは、スマホを触っていなくても、そこにスマホがあるという事実が、対面の会話に影響を与えている可能性があります。具体的には、会話での共感レベルが下がり、話題がスマホに左右される恐れがあり、自他の感情や心理状態への注意が削がれてしまいかねません。
恐らくこのことの背景には、注意の分散があるのでしょう。一つのことに十分注意を向けて、それについてあれこれ考える習慣そのものが衰退しているのだとすれば、やはり〈孤立〉が重要になってきます。
いろいろな事柄や相手に注意が分散しているわけですから、対面での会話が作業するようにこなされてしまうのは当然です。反射的なコミュニケーションで自分を取り巻くことは、相手の人格や心理状態を想像しないようにと日夜練習を積み重ねているようなものです。マルチタスク化した生活がもたらす〈孤立〉の喪失は、なかなか問題がありそうです。
〈孤独〉の喪失
常時接続の世界では、〈孤立〉だけでなく〈孤独〉もまた失われつつあるという話でした。〈孤立〉は、注意を分散させず、一つのことに集中する力に関係するのに対して、〈孤独〉は、自分自身と対話する力に関わっています。
やはりタークルが、印象深い事例を挙げているので、これを手がかりにしましょう。
これが〈孤独〉を欠いた状態の一例です。心当たりのある人もいるでしょうか。
実は私自身そうです。祖母の葬式に出て遺体が焼かれるのを待っているとき、スマホを触りたくて仕方がなかったことがあります。そのときの私は、「うまく言えないけど、そうしないほうがいいだろう」と思って、電源を落とし、鞄の奥にしまいました。
代わりに、外の風景をただ眺めたり、近くにいる親戚と何でもない話をしたり、ただ沈黙したり、頭の片隅に浮かんだことを手帳に書いて整理したりしました。ただ、そうしている間も、スマートフォンの電源をつけようか、あるいはテレビのあるところにでも行こうかという思いが頭によぎっていました。
ここで失われ(かけてい)たものが、〈孤独〉です。退屈に耐えきれず、何か刺激やコミュニケーションを求めてしまう。自分自身と過ごすことができないということです。〈孤独〉という言葉を通して、刺激を求めたり他者への反応を優先したりすることなく、自分一人で時間を過ごすことの重要性が語られているわけですね。
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