結局、佐賀藩の状況も変わってきたため、脱藩は3カ月という短い期間に終わる。佐賀に戻った江藤は脱藩したことから、謹慎生活を余儀なくされている。本来ならば死罪だが、その才能が藩主から高く買われていたからこそ温情のある処罰だった。
しかし、世間はそんなことを知る由もない。父母や妻子とともに山奥の廃寺で謹慎する江藤や家族たちを見ては、こんな陰口を叩いて見下した。
「本を読んでも江藤新平のようにはなるな」
江藤は寺子屋を開いて、子供たちに教えて小銭を稼いだが、やはり生活は苦しかった。父母と子供にはなんとか食べさせられたものの、自分と妻は食事もままならない毎日。栄養失調で倒れることさえあったという。
だが、謹慎が明けると、江藤は頭角をめきめきと現す。藩主の鍋島直大に随行して上京する一員に抜擢された。
結局、藩主が上京できなくなったため、江藤が岩倉具視や三条実美などの新政府の要人と面会。その鋭い先見性と弁舌の巧みさに、一目置かれる存在となる。その後は司法卿まで上り詰めて、大久保を脅かすほど、明治新政府で活躍することとなった。
かつての部下が下した「さらし首」の判決
このように苦境から立身出世を果たした江藤からすれば、佐賀の現状を変えたいという、同郷の若者たちの気持ちはよく理解できた。そして、また自分も多くの有力者によって、時には命を救われ、時には抜擢されて、ここまできたのだ。故郷の若者たちの思いに応えずにはいられなかったのだろう。
だが、その決断をした瞬間に、大久保の勝利は確定したといってもよい。大久保にとっては、江藤という政敵を追い落とせるだけではなく、不平士族に対する強い警告を送る最大のチャンスである。多くの参議が下野する事態を受けて、大久保はここが正念場だと考えた。
捕らえられた江藤は東京での裁判を望んだが叶わず、佐賀へ護送される。裁判の結果、「さらし首」という、むごい刑が確定。当時の刑法上では、最高刑が科せられることになった。
裁判長を務めたのは、この記事の冒頭で登場した河野敏鎌で、江藤のかつての部下にあたる。この判決には、さすがの江藤も動揺したが、その態度を見て大久保は日記に「江藤の醜態は笑止である」と記している。
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