思慮浅い男すら賢く使う「大久保利通」仰天人事術 「佐賀の乱」江藤新平を追い詰める巧みな罠

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佐賀の乱の舞台となった佐賀城。鯱の門(写真)には当時の弾痕も残る(写真:J6HQL/PIXTA)
倒幕を果たして明治新政府の成立に大きく貢献した、大久保利通。新政府では中心人物として一大改革に尽力し、日本近代化の礎を築いた。
しかし、その実績とは裏腹に、大久保はすこぶる不人気な人物でもある。「他人を支配する独裁者」「冷酷なリアリスト」「融通の利かない権力者」……。こんなイメージすら持たれているようだ。薩摩藩で幼少期をともにした同志の西郷隆盛が、死後も国民から英雄として慕われ続けたのとは対照的である。
大久保利通はどんな人物だったのか。実像を探る連載(毎週日曜日に配信予定)第42回は、「佐賀の乱」で大久保利通が見せた、したたかな人事術について解説します。
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<第41回までのあらすじ>
薩摩藩の郷中教育によって政治家として活躍する素地を形作った大久保利通。21歳のときに父が島流しになり、貧苦にあえいだが、処分が解かれると、急逝した薩摩藩主・島津斉彬の弟、久光に取り入り、重用されるようになる。
久光が朝廷の信用を得ることに成功すると、大久保は朝廷と手を組んで江戸幕府に改革を迫ったが、その前に立ちはだかった徳川慶喜の態度をきっかけに、倒幕の決意を固めていく。大久保は閉塞した状況を打破するため、島流しにあっていた西郷隆盛の復帰に尽力。その西郷は復帰後、勝海舟と出会い、長州藩討伐の考えを一変させ、坂本龍馬との出会いを経て、薩長同盟を結んだ。
武力による倒幕の準備を着々と進める大久保と西郷に対し、慶喜は起死回生の一策「大政奉還」に打って出たが、トップリーダーとしての限界も露呈。意に反して薩摩藩と対峙することになり、戊辰戦争へと発展した。
その後、西郷は江戸城無血開城を実現。大久保は明治新政府の基礎固めに奔走し、版籍奉還、廃藩置県などの改革を断行した。そして大久保は「岩倉使節団」の一員として、人生初の欧米視察に出かけ、その豊かさに衝撃を受けて帰国する。
ところが、大久保が留守の間、政府は大きく変わっていた。帰国した大久保と西郷は朝鮮への使節派遣をめぐって対立し、西郷は下野。孤独な権力者となりつつあった大久保のもとに「佐賀で不平士族が反旗を翻そうとしている」という情報が入る。

大久保利通が待ち望んでいた電報

明治7(1874)年2月3日、大久保利通が待ち望んでいた電報が、福岡市の大名町郵便局から工部省に届く。

「サガケンシゾク、アルテラニアツマリ、セイカンロンヲトナへ、ヒビイキヲイサカンナリ」

佐賀の士族たちがある寺に集まって征韓論を唱えて、日々勢いが盛んである――。知らせを聞いた大久保はろくに事実関係も確認せずに、翌日には陸軍省に命令を下した。

「佐賀県下、士族動揺の報あり。よろしく近傍鎮台の兵を出し、県官と商議してすみやかにこれを鎮圧すべし」

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