晒し首の江藤新平に「笑止」大久保利通が冷酷な訳 佐賀の乱の醜態を批判、背景に西郷隆盛の存在も

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父はまもなく復職するが、一度貧しくなった経済状況は変わらなかった。一家は米さえもまともに食べられず、菜ばかりを食べる日々。新平は、幼き日から四書五経の訓読を教わった母に、こんな決意を語った。

「今や不幸にして家運は衰えている。だけど自分はどんなに努力しても家運を挽回するつもりだ」

ひたすら書を読んで育った新平は、15歳で藩校弘道館に入学。書生寮に入ると、ボロボロの着物をまといながら、国学、漢学、和漢の歴史、書道、算数、習礼、諸学科などに打ち込んだ。

思えば、大久保もまた江藤と同じく、父が理不尽な目に遭ったことで、極貧生活を余儀なくされた。だからこそ、大久保は権力を欲して、薩摩藩の島津久光に取り入って出世を果たすが、江藤の場合は学問に打ち込む道を選んだ。

23歳で書いた「図海策」で頭角を現した江藤新平

江藤の秀才ぶりが注目されたのは、23歳で『図海策』(とかいさく)という長文の意見書を書き上げて提出したことがきっかけである。外国と活発に通商を行い、世界中から人材を招いて政治・経済・技術・学問を発展させる――。

そんな視野の広い開国論を打ち出している。やがて江藤は砲火術(大砲)方目付という、蘭学に堪能な者が選ばれる役目に就くことに成功。エリート街道をひた走るかに見えた。

だが、文久2(1862)年、江藤は思い切った行動に出る。それは「脱藩」である。江藤には、1歳年上の中野方蔵という学友がいた。江藤は中野から情報を得て、幕府がアメリカから開国を迫られているという危機的な状況を知る。

そんなとき、中野が「坂下門外の変」との関与を疑われて捕縛。獄中死することになり、江藤は大きなショックを受ける。

こうなったら、友人の代わりに自分が脱藩してでも江戸に上り、中央の情勢を佐賀藩に伝えなければならない。そして、朝廷と幕府をつなぐという大役を佐賀藩の藩主である鍋島直正に担ってもらいたい――。

江藤はそんなふうに考えて脱藩を決行。江戸に上っている。つまり、佐賀藩にもっと大局的な視点を持ってもらうために、捨て身の覚悟で江戸と佐賀藩の懸け橋になろうとしたのだ。

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