用意周到な大久保に追い詰められた江藤は軍の解放を宣言する。そして漁船で佐賀を脱出すると、鹿児島に向かった。西郷隆盛に救援してもらえれば、まだ巻き返しが図れるかもしれない。江藤にとっては窮余の一策だったが、西郷と何度会っても、色よい返事はもらえなかった。
それも無理はない。西郷は下野したあと、ひたすら農業に打ち込んでいた。従兄弟の大山巌にも手紙でこんな近況報告を行っている。
「当今はまったく農人と成り切り、ひたすら勉強いたし居り候」
周囲の期待とは裏腹に、明治政府に反旗を翻すつもりなど、西郷には毛頭なかった。西郷からの協力を諦めた江藤は、次に高知にわたり、林有造や片岡健吉らに応援を頼んでいる。だが、やはり断られてしまう。
再び上京するしかない――。そう考えた矢先のことだ。江藤は高知県内で身柄を確保される。皮肉にも江藤自身が創設した指名手配制度が、自らを追い詰めることになった。
江藤が若者たちの助けを断ることができなかったワケ
「いったい、どこで間違えたのだろうか……」
江藤はそう振り返ったことだろう。「明治6年の政変」で西郷らとともに下野したところまでは、巻き返す余地は十分にあった。やはりターニングポイントは、周囲の制止を聞かずに、佐賀入りしたことだ。
故郷から上京してきた佐賀の若者から助けを求められたときに、江藤が彼らの頼みを聞いて、混乱する佐賀にわざわざ渡ることさえしなければ、乱の首謀者に担ぎあげられることはなかった。現に副島種臣は彼らの頼みを拒んで、東京に留まっている。
だが、江藤には断ることができなかった。なぜか。それは彼らの姿は、かつての江藤自身の姿だったからである。
新平は天保5(1834)年、佐賀郡八戸村に生まれた。父の江藤胤光は、下級藩士で「郡目付役」という百姓を監視する役目に就いていたが、やがて上役と対立して無役になってしまう。
というのも、新平の父は監視役でありながら、町人や百姓にも分け隔てなく接し、かつ、自分より地位が高い者にも臆することなく直言していた。それがどうも上役にとっては面白くなかったようだ。新平の頑固さは、父譲りだったのかもしれない。
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