あの大久保利通を論破「江藤新平」鋭い指摘の中身 「カミソリ」と称された明治政府きっての切れ者

✎ 1〜 ✎ 38 ✎ 39 ✎ 40 ✎ 最新
著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小
佐賀藩出身の江藤新平は切れ者として知られ、司法制度などの整備に尽力(写真:近現代PL/アフロ)
倒幕を果たして明治新政府の成立に大きく貢献した、大久保利通。新政府では中心人物として一大改革に尽力し、日本近代化の礎を築いた。
しかし、その実績とは裏腹に、大久保はすこぶる不人気な人物でもある。「他人を支配する独裁者」「冷酷なリアリスト」「融通の利かない権力者」……。こんなイメージすら持たれているようだ。薩摩藩で幼少期をともにした同志の西郷隆盛が、死後も国民から英雄として慕われ続けたのとは対照的である。
大久保利通はどんな人物だったのか。実像を探る連載(毎週日曜日に配信予定)第39回は、大久保と西郷が対立することになった「朝鮮への使節派遣」で、どんな議論が行われたのかを解説します。
著者フォローをすると、連載の新しい記事が公開されたときにお知らせメールが届きます。
<第38回までのあらすじ>
薩摩藩の郷中教育によって政治家として活躍する素地を形作った大久保利通。21歳のときに父が島流しになり、貧苦にあえいだが、処分が解かれると、急逝した薩摩藩主・島津斉彬の弟、久光に取り入り、重用されるようになる。
久光が朝廷の信用を得ることに成功すると、大久保は朝廷と手を組んで江戸幕府に改革を迫ったが、その前に立ちはだかった徳川慶喜の態度をきっかけに、倒幕の決意を固めていく。大久保は閉塞した状況を打破するため、島流しにあっていた西郷隆盛の復帰に尽力。その西郷は復帰後、勝海舟と出会い、長州藩討伐の考えを一変させ、坂本龍馬との出会いを経て、薩長同盟を結んだ。
武力による倒幕の準備を着々と進める大久保と西郷に対し、慶喜は起死回生の一策「大政奉還」に打って出たが、トップリーダーとしての限界も露呈。意に反して薩摩藩と対峙することになり、戊辰戦争へと発展した。
その後、西郷は江戸城無血開城を実現。大久保は明治新政府の基礎固めに奔走し、版籍奉還、廃藩置県などの改革を断行した。そして大久保は「岩倉使節団」の一員として、人生初の欧米視察に出かけ、その豊かさに衝撃を受けて帰国する。
ところが、大久保が留守の間、政府は大きく変わっていた。帰国した大久保と西郷は朝鮮への使節派遣をめぐって対立することになる。

西郷隆盛の主張に異議を唱えた大久保利通

明治6(1873年)年10月14日、閣議で西郷隆盛の朝鮮への使節派遣について、話し合いが行われた。

このとき会議に出席したのは太政大臣の三条実美と右大臣の岩倉具視、そのほか参議9人のうち8人である。元薩摩藩が西郷隆盛と大久保利通の2人、元土佐藩が板垣退助と後藤象二郎の2人。そして、元佐賀藩は副島種臣、大木喬任、江藤新平、大隈重信と4人も参議として名を連ねていた。

元長州藩の参議は木戸孝允ただ1人だが、この閣議は病欠している。西郷を朝鮮へ派遣するかどうかを、このメンバーで議論することになった。

「何としてでも自分が朝鮮に渡りたい」

そう主張する西郷に対して、大久保利通は、現状でも厳しい国家財政の面から、朝鮮への使節派遣に異議を唱えている。もしここで朝鮮に使節を送り、その交渉がうまくいかず、戦争をするようなことになれば、経済は破綻してしまう。債権国に貿易港を抑えられてしまいかねない、と主張した。

次ページ西郷はどんな主張をしたのか
関連記事
トピックボードAD
ライフの人気記事