倒幕を果たして明治新政府の成立に大きく貢献した、大久保利通。新政府では中心人物として一大改革に尽力し、日本近代化の礎を築いた。
しかし、その実績とは裏腹に、大久保はすこぶる不人気な人物でもある。「他人を支配する独裁者」「冷酷なリアリスト」「融通の利かない権力者」……。こんなイメージすら持たれているようだ。薩摩藩で幼少期をともにした同志の西郷隆盛が、死後も国民から英雄として慕われ続けたのとは対照的である。
大久保利通はどんな人物だったのか。実像を探る連載(毎週日曜日に配信予定)第40回は、大久保と西郷が対立することになった「朝鮮への使節派遣」で、大久保が形勢を逆転した驚きの「寝技」について解説します。
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<第39回までのあらすじ>
薩摩藩の郷中教育によって政治家として活躍する素地を形作った大久保利通。21歳のときに父が島流しになり、貧苦にあえいだが、処分が解かれると、急逝した薩摩藩主・島津斉彬の弟、久光に取り入り、重用されるようになる。
薩摩藩の郷中教育によって政治家として活躍する素地を形作った大久保利通。21歳のときに父が島流しになり、貧苦にあえいだが、処分が解かれると、急逝した薩摩藩主・島津斉彬の弟、久光に取り入り、重用されるようになる。
久光が朝廷の信用を得ることに成功すると、大久保は朝廷と手を組んで江戸幕府に改革を迫ったが、その前に立ちはだかった徳川慶喜の態度をきっかけに、倒幕の決意を固めていく。大久保は閉塞した状況を打破するため、島流しにあっていた西郷隆盛の復帰に尽力。その西郷は復帰後、勝海舟と出会い、長州藩討伐の考えを一変させ、坂本龍馬との出会いを経て、薩長同盟を結んだ。
武力による倒幕の準備を着々と進める大久保と西郷に対し、慶喜は起死回生の一策「大政奉還」に打って出たが、トップリーダーとしての限界も露呈。意に反して薩摩藩と対峙することになり、戊辰戦争へと発展した。
その後、西郷は江戸城無血開城を実現。大久保は明治新政府の基礎固めに奔走し、版籍奉還、廃藩置県などの改革を断行した。そして大久保は「岩倉使節団」の一員として、人生初の欧米視察に出かけ、その豊かさに衝撃を受けて帰国する。
ところが、大久保が留守の間、政府は大きく変わっていた。帰国した大久保と西郷は朝鮮への使節派遣をめぐって対立することになる。
三条実美にはしごを外された大久保利通
明治6(1873)年10月15日の閣議で、西郷隆盛の朝鮮への即時派遣が決まると、大久保利通は日記にこう書いている。
「当初の覚悟どおり辞職することを決心した」
大久保は、三条実美と岩倉具視に何度も頼まれたので参議に就き、西郷のストッパー役を引き受けた。それにもかかわらず、三条の心変わりによって、はしごを外されたことになる。
大久保からすれば、何度となく遭遇してきた公家の心変わり。「またか」というのが、本音だろう。そうなることを危惧して大久保は、三条と岩倉に「立場を変えないこと」を約束させ、書面まで交わしたのに、この仕打ちである。
辞表を叩きつけるのも当然のことだ。江藤新平に論破された屈辱も、心の底に暗く沈んでいたに違いない(前回記事『あの大久保利通を論破「江藤新平」鋭い指摘の中身』参照)。
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