40歳になってから惑った糸井重里の転身に学ぶ事 別の経験をした余裕が他の道筋に気づかせてくれる
40歳当時の糸井重里
ウェブサイト「ほぼ日刊イトイ新聞」などのコンテンツを制作、運営する「株式会社ほぼ日にち」をご存じだろうか。代表取締役社長の糸井重里は、50歳になる年にコピーライターから転身して会社を立ち上げ、68歳で株式上場を果たした。
私が初めて彼の名前を知ったのは、1980年、歌謡番組「ザ・ベストテン」だった。沢田研二がパラシュートを背負いながら「TOKIO」を歌っていて、「また阿久悠が奇抜な歌詞を書いたのか」と思って見ていると、「作詞:糸井重里」というテロップが出て誰だろうと興味を惹かれた。
その後も彼は、コピーライターという枠にとどまらず、エッセイスト、タレント、作詞家として幅広く活躍している。『日本経済新聞』(2019年1月5日)の「スキルアップ塾」でのインタビューによると、広告の仕事に限界を感じた40代の頃、仕事をせずに年間140日ほど釣りばかりしていた2年間があったという。その時期を経て、どうせ生きるならもっと面白いこともやりたいし、釣りばかりしていてもいけないとも思ったそうだ。
絶対に嫌だと思う仕事を引き受けるのをやめ、厳選するとのスタンスを決めた。そして50歳になる年にインターネットに魅せられ、「ほぼ日刊イトイ新聞」という自前のメディアを始めたという。それが今につながっている。
また、雑誌『AERA』(2014年11月3日号)の特集「40歳は、惑う。」には、「ゼロになってちゃんともがく」という糸井重里の談話が掲載されている。40歳当時を振り返って「暗いトンネルに入ったみたいでつらかったのを覚えている。絶対に戻りたくない、というくらいにね」と語っている。40歳を越えた途端に今までの自分では通用しなくなるのではないかと感じ始めたというのだ。
仕事で迎えの車が来るのを断り、釣りを始めたりした。ゼロになってもがいた40歳からの10年間がなかったら「ほぼ日刊イトイ新聞」はできなかったと述べている。
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