「数値化」では世界の本質を理解できない理由 土着人類学で考える社会との折り合いの付け方

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しかしこのモデルに限界が来ています。社会的格差の拡大や地球環境への多大な負荷による異常気象。「死んだ世界」を材料に発展した科学技術によって、すべての生き物をコントロール下に置こうとしたプロジェクトはさすがに無理がありました。それが露呈してきたのがここ近年だといえます。このままの生活、社会、経済を続けていては、地球が壊れることはないでしょうが、人間にとっても都合の悪い「死んだ世界」になってしまいます。「死んだ世界」を目指してきたぼくたちの自業自得だとも言えるのですが。でもぼくたちの生活に少しでも「生きた世界」を取り戻していく必要がある。土着人類学はそのための試みです。

「生」と「死」を行き来する土着人類学

土着人類学は学問ではないので、主体と客体は常に入れ替わる可能性を秘めているし、他人の考えから影響を受けて自分が新たに生まれ変わるなんてことも、恥ずかしいことではありません。むしろ推奨すべきことです。そういう意味で土着人類学は「死んだ世界」と「生きた世界」を行ったり来たりしながら、なんとかかんとか生きていく術だといえます。

しかし、ただやみくもに行ったり来たりすれば良いわけではありません。この資本主義社会では、そんなことをすると自分の中にある「生き物」の部分がすり減らされてしまいます。ゆっくり時間をかけて食事を味わったり、新緑の木々の緑の違いを楽しんだり、耳を澄ませて聞いたことのない鳥の鳴き声を聞いたりする時間、余裕がなくなってきたら危険な兆候です。自分の中の「生き物」の部分、言い換えれば自分にとっての「自然」を何よりも優先するように生きていくことが大事なのです。

ぼくは自分の中の「自然」のことを「土着」と呼んでいます。一般的に、この土着的な部分は社会を生きる上で「やっかいな」ものとして現れてきます。なぜなら社会は「死んだ世界」だからです。だから社会でうまく生きていくためには「死ぬ」必要がある。

でもこの土着的な部分をうまく「殺せない」人は、どうしても社会とぶつかることになってしまう。社会ではこの土着的な部分を抑え込んだり無視したりして生きていくのが得策であり、その作法を身につけているのが社会人であり大人だと教えられます。それがうまくできない人は排除され、ことによっては障害者だと言われてしまいます。ぼくは『手づくりのアジール』内の対談において、以下のように述べています。

(前略)土着的な部分ってその人だけでどうにかできることではなく、周りの環境との関係性が大事なんですよね。街で虫を見るとぎょっとするのですが、東吉野村で見ると「ああ、そうだよね」と、自然に受け入れられる。
 ぼくは障害福祉の仕事もしていますが、これは障害者が社会によって障害者とされるかどうかが決まるのと同じだと思っています。障害者とラベリングされたことで生きやすくなるケースもあるので一概にはいえませんが、ぼくが就労支援をしている障害者の方たちは、自分の中に土着的な部分があるために社会とうまくいかなかった人たちです。かれらを再び社会に適応させるために訓練するのが仕事なので、そこにはいつも葛藤がありますし、正直いうと、かれらが自分の「土着」を抑え込んで社会に適応する術を身に着けていくよりも、せっかく持っている土着的な部分を大事にできるような、ゆるやかな社会をつくっていくことの方が大切だと思っています。(『手づくりのアジール』144-145頁)

この土着的な部分を持ちつつ、現代において人類として生きていく。そのためには「生きた世界」と「死んだ世界」を行ったり来たりできるようになることも重要ですが、この「行ったり来たり」を許容する社会をつくることも必要です。

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