西郷隆盛ら倒幕派は大困惑「大政奉還」意外な裏側 徳川慶喜にとって起死回生の一策だった

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そうして「幕府は朝廷に政権を返上するべきだ」とする大政奉還が注目を浴びるなかで、大久保と西郷はあくまでも武力による倒幕を目指した。

なにしろ、大久保はこれまでの経験から、すでに朝廷を見限っている。また、慶喜のことだから、武力で打倒して政権を奪わないことには、いつもの変わり身戦法で周囲をかき回し、いつの間にか政権の中心に居座っているに違いない。

だからこそ、西郷は後藤から大政奉還に対する同意を求められても、協力を拒み続けた。しかし、意外にも大久保が西郷を説得。土佐藩が大政奉還論を幕府に提出することを邪魔しないことにした。いったい、なぜか。

1つには土佐藩が建白したところで、慶喜がそれに同意して、政権を手放すのは現実的ではないと考えたのだろう。慶喜が大政奉還を拒否すれば、武力で打倒する理由付けとして、むしろ望ましい展開になる。

また、どんなかたちにしろ、江戸幕府が政権を失ったあとは、有力藩で協力体制を作っていく必要がある。ここで方法論の違いで土佐藩と対立するのは、得策ではなかった。目的への一本道を突き進むことにこだわらず、どんなルートであっても目的地に着くことを重視する。あえて大政奉還に協力したのは、そんな大久保らしい判断だといえよう。

倒幕が先か?大政奉還が先か?

一方で、大久保は西郷とともに武力による倒幕への準備を着実に進めていた。薩摩と長州による倒幕が先か、土佐藩が建白した大政奉還を慶喜が受け入れるのが先か。

日付で見ていこう。10月2日に大久保に説得された西郷が、土佐藩に対して「幕府に大政奉還の建白を行う」ことを了承。後藤が山内の許可のもと、その翌日の10月3日に老中の板倉勝静に、大政奉還の建白書を提出している。

同日、鹿児島からは400の兵が出発。3日後の6日に長州領に到着して兵を増強する。同じ日に大久保は、長州藩の品川弥二郎とともに岩倉具視を訪ねている。目的は、錦旗を準備してもらうためだ。錦旗さえあれば、朝廷の命令で幕府を討つという形ができあがる。

さらに2日後には薩摩と長州で話し合いの場をもうけて、武力蜂起を行うことが決定。そして13日には薩摩に対して、14日には長州に対して「討幕の密勅」が下される。朝廷から「幕府を倒せ」と命じられたのだ。

武力で倒幕を行うのに、これ以上ない状況だが、密勅自体は岩倉がなかばでっち上げたものだった。明治天皇は知らなかったのではないかとされている。大久保の強引さが、岩倉に危ない橋を渡らせたのだろう。

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