西郷隆盛ら倒幕派は大困惑「大政奉還」意外な裏側 徳川慶喜にとって起死回生の一策だった

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だが、そんな久光も大久保と西郷の熱にあてられて、ようやく倒幕の方針に同意。幕府との対立が深刻な長州藩も倒幕派が主流となり、倒幕の機運が高まっていく。

それでも慶喜を追い詰めるには、まだピースが足りない。なにしろ、イギリスと連携してまで追い込んだはずが、慶喜はぬるりとすり抜けて、外交面でちゃっかりと国の代表として存在感を発揮する始末である。

難局を打開するために、大久保は土佐藩と手を組むことを決意する。慶応3(1867)年、薩摩藩からは大久保、西郷、小松帯刀が、土佐藩からは後藤象二郎、坂本龍馬、中岡慎太郎らが代表して、両者の間で「薩土盟約」が締結されることとなった。

しかし、土佐藩は藩主の山内容堂をはじめ、依然として公武合体に固執にしており、武力による倒幕には反対であった。というのも、土佐藩は藩祖の山内一豊が、豊臣秀吉に仕えながらも、秀吉の死後は家康についた。関ケ原の戦いでも東軍の味方についたため、家康から破格の恩賞を受けて、24万2000石の大領主となった。

そんな背景から、土佐藩は薩摩や長州と同じく外様でありながらも幕府への忠義を尽くしてきたのだ。山内が断固倒幕を拒否したのも、無理からぬことだろう。認識の違いから、いったん結ばれた薩土盟約は消滅する。

大政奉還は坂本龍馬の発案?

幕府への恩義がある山内は、後藤象二郎から進言された案に突き進もうとしていた。それこそが「大政奉還」だ。幕府を倒すのではなく、幕府が朝廷に政権を返すことで、新しい政治体制を作るという構想だった。

大政奉還は坂本龍馬の発案だと考える向きもある。その理由が、龍馬が打ち出したとされる「船中八策」であり、次の8項目となる。

・政権を朝廷に返すこと
・上下の議会を設置し、議員を置いて公論に基づいて政治を行うこと
・公卿や大名のほか世のすぐれた人材の中から顧問を選ぶこと
・新しく国家の基本になる法律を定めること
・外国と新たに平等な条約を結び直すこと
・海軍の力を強めること
・親兵を設けて都を守ること
・金銀の比率や物の値段を外国と同じにするよう努めること

冒頭の「政権を朝廷に返すこと」こそが、大政奉還の着想につながったというわけだが、松平春嶽の『逸事史補』によると、すでに文久2(1862)年の時点で、幕臣の大久保忠寛が幕議の席で提唱したという記録が残っている。また、知野文哉が著した『「坂本龍馬」の誕生』にいたっては、そもそも「船中八策」の存在自体が、明治期以降の創作だとしている。「大政奉還」を龍馬が考え出したものとするのには、無理があるようだ。

それでも龍馬が「大政奉還」の実現へと動いた可能性は高い。大政奉還後の慶応3(1867)年に龍馬が書いた「新政府綱領八策」では、上記の「船中八策」と呼ばれるものと同じ内容が展開されている。龍馬は何らかのかたちで、後藤象二郎に自らの構想を語っていたのかもしれない。

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