日本初?「漫才授業」で学校を沸かす芸人の正体 「アンダーエイジ」が岩手に移住した深いワケ

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住みます芸人になって10年を迎えたアンダーエイジは、ともに東北出身という吉本でも珍しいコンビだ。2人はそれぞれ地元の高校を卒業後、東京の別の大学に進学したが、初めに住んだ学生寮が一緒で、そろってお笑い好きだったことから意気投合したという。

「吉本・オガール地方創生アカデミー」の合同記者会見で、進行役を務めるアンダーエイジの熊谷(左)と結城(右)。2021年11月1日。吉本興業東京本部(筆者撮影)

「最初は2人とも自分たちがお笑い芸人に“なる”とは考えていませんでした。山形や岩手で育ったら、そんな発想自体、無いんですよ。お笑いはあくまで“観る”ものでしたから。けれども東京に出てきたら、上手くないのにミュージシャン目指してる奴とか、カッコ良くないのに真剣にモデル目指している奴らがいて、周りを気にせず、自分の好きなことや夢を追っかけてたんですよね。そいつらの姿を見て、俺もやりたいことやっていいんだって思って、大学卒業する直前に熊谷を誘って、2005年に東京NSCに入ったんです」(結城)

そして2人はNSC卒業後の2007年にコンビを結成する。

「それからは、ひたすら(漫才)ライブに出てました。ライブだけで月10本とか、多い時には15本とか。結構、仕事はあったほうだと思います。M−1(グランプリ)を目指してたんです。コンビ組んだ2007年からチャレンジし始めて、4回目の2010年は3回戦まで残って、結構、手応え感じていたんです。けど、その年を最後にM−1が終わってしまって(2015年から再開)、それで完全に目標を失っちゃって」(結城)

東日本大震災で人生が一変

だが、その翌年に起こったのが、東日本大震災だった。

「(2011年)1月に『住みます芸人』の説明会があって、僕らも参加したんですが、その時は、正直、何の興味も無かったんです。

ところが、その2カ月後に震災があって。地元が被災してるのに、俺は帰らなくていいのかな、このまま東京で芸人やってていいのかな……とか思ってたところに、お世話になっていた社員さんから連絡があって。

『こういう時だからこそ、出身者の君が行ったほうがいいんだよ』って言ってくれて。嬉しかったんですが、『一度、相方と相談させてください。相方は地元(岩手出身)じゃないんで』って言ったら、『え、結城くんにはもうOKもらってるけど』って(笑)。相方が先にOK出してたんです」

熊谷の話を結城が引き取る。

「M−1が終わって、目標を見失って、このまま芸人続けるなら何かターニングポイントが欲しいと思ってたんですよね。とにかく何か動きたいな、と。そんな時に社員さんから『住みます芸人』の話をいただいて、いい機会だと思ったんです」

そして2011年5月4日、2人は「あおぞら花月」のメンバーとして震災後、初めて被災地入りした。「あおぞら花月」とは26年前、阪神・淡路大震災をきっかけに吉本興業が始めた、芸人による慰問活動だ。東日本大震災の時にも多くの芸人が福島、宮城、岩手を訪れ、最も熱心に被災地を訪問していた夫婦漫才コンビ「宮川大助・花子」は、大船渡市の「おおふなと復興応援特別大使」に任命された。

「どこの被災地も大変な状況でしたが、『高田松原』(陸前高田市)を訪れた時はさすがにショックでした。花巻の人間にとっては、初日の出や海水浴で思い出の場所だったんですが、どこがどこだかわからないくらいに変わってて……」(熊谷)

その一方で、彼らの「住みます芸人」としてのスタートは順調そのものだった。というのも、他県と違って、彼らが岩手に派遣される前から、地元テレビ局で「レギュラー番組」が用意されていたというのだ。

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