その質問に対してものすごく苛立ったんです。確かに、震災直後はわずかな高低差が生死を分けた、という報道はよくありましたよ。でも、自分の中にはその事実は報道するに値することなのかという疑問があった。にもかかわらず、作り手も視聴者も「ジャーナリズムはそういうことを伝えるもの」という前提があるわけです。そういうふうに「物事を決め付けて見る」という風潮があることに苛立ちました。
何事も疑うことをせずに「ア・プリオリ」(先天的)に常識のようなものを前提に物事を見てしまうことは受け入れがたい。
僕はすべての物事には両面性があると思っています。そして、過去の犯罪を扱った作品において「加害者の視点」から物事を描いてきたのはそれが理由です。
加害者が犯罪に至らざるをえなかった社会の裏側には何があるのか。そこを描かないときちんと描いた気がしません。
一方、今回も行政側は「悪」としてしか描かれていなかった原作とは異なり、彼らにも「理」があるように描いています。
残された者にも思いを寄せて
――利根も笘篠も避け得たかもしれない事情によってこの世を去った「護られなかった者たち」に思いを寄せて生きています。
「護られなかった者」がいる一方で、「残された者」たちもいる。そして、その中には生き残ってしまったことに対する呵責をずっと感じ続けている人もいるのではないでしょうか。
震災で大切な人を失ったのであれば、毎年3.11がくればその呵責が蘇るでしょうし、戦争で大切な人を失ったのであれば、終戦記念日には同じ気持ちになるでしょう。今はコロナ禍で十分な医療を受けられずに亡くなられた人たちもいます。そういう人たちにとっては、その方の誕生日や命日がくればやはりその感情が湧き上がるのではないかと。
そういうやり切れなさは、生きていれば必ずどこかで発生してしまうものだと思います。そして、その積み重ねが人生だし、そのまま人類の歴史でもある。誰しもそのことを踏まえつつ未来に向かうしかないと思うんです。
その「護られなかった者」と「残された者」の共振を描きたかったんですね。そして、私たち映画人の仕事はその「共振」を物語にすることなのではないかと。
呵責を抱えて生きることを余儀なくされた人たちに、一方的な立場からではなく、多面的な角度から描いた物語を提示して前を向いて生きる後押しをする。物語を作るうえで、どうしたらそれを実現できるのか、考え続けることが大切なのではないでしょうか。
(文中一部敬称略)
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