外出自粛が気づかせた「コロナ前の日常」の異常 会社や学校に行かないことが救いになった人も
釈:あれ? 池上さんもそういえば。
池上:厳密に言うと、団塊の世代の1つ下なんですけど(1950年生まれ)。高校・大学で、いわゆる受験戦争という言葉が生まれました。高校受験、次は大学受験だ、と。だんだん進学率も上がってきて。私は小学校のとき、1クラス50人学級でした。若い方には信じられないでしょうけど、良かったですよ、先生の目が届かないので。後ろのほうで何をやっていても先生に気づかれなかったです(笑)。
釈:なるほど、受験戦争世代、『傾向と対策』世代でしたか。この世代は反伝統・反宗教の人が多い印象があるんです。でも歳を重ねるにつれて、今、宗教的関心が高くなっているんじゃないですか。
伝統ある宗教では、死を超えても続く道が説かれています。それは、死ねばどこかいいところへ行くとか、何か悪いことしたら悪いところに行くっていう、そんなシンプルじゃなく、本当にいまをどう生きるかが立ち上がるような仕組みになっているんです。伝統宗教が伝えてきた、死を超えるストーリーに身を委ねる道は、人類の到達点のひとつでしょう。
死について語り合うことはトレーニング
池上:伝統宗教は何百年も風雪に耐えてきたわけですからね。
釈:ええ、そうなんです。そこには蓄積されてきた知恵もあれば、個人の思惑や都合を超えるものがあります。もちろん、やっぱり死そのものを体験することはできないんですけども、死について語り合うということ自体は、ある種の死ぬトレーニングになるのは間違いありません。死の訓練として、死について語り合う友人がいたり、ときには宗教者と語り合うような体験があるといいと思うんですよね。
ヨーロッパにはホームドクター制度がありますが、そんな感じで、何かというと相談できるお医者さんがいる――、何か死についていろいろ語り合える宗教者のお友だちなんかがいるのがお勧めです。かかりつけ医師ならぬ、かかりつけ宗教者といったところでしょうか。
池上:ヨーロッパなどでは、日曜日に教会に行って、神父さんなり牧師さんなりの話を聞くというのが日常的な光景ですよね。まさに、かかりつけ宗教者ですね。
釈:その宗教者が答えを持っているわけでもないんですよ。宗教者は一緒に考えるのが、仕事みたいなものです。普段から死について考える時間が、少なくとも普通の人よりは多いというだけのことですので。でも、一緒に考えるようなことはしてくれます。
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